5-9 記憶の漂白
庭に面したベンチに、ノアはマグナファリスと並んで座る。
暖かい陽気の中、元気に遊ぶ子どもたちが見える。周囲では黄色や白、ピンクの野花が咲き誇り、蝶がひらひらと飛び交う。
居眠りしたくなるような平和で穏やかな午後だ。
「ここを運営していた伯爵は、才能のある人物だったな。もったいないことだ」
マグナファリスは優しい表情で子どもたちを眺める。
「ローゼット様も、先生の教え子だったのですか」
「いや、君のことを話したことがあるくらいだ。彼女には、錬金術師よりもやりたいことがあったようだからな」
懐かしそうに呟く。
ローゼットがエレノアールのことを知っていた理由がようやくわかった。
どんな話をしたのだろうかは気になるが、聞きたくない気持ちもあったので、触れないようにする。
「それでは、ファントムと名乗る錬金術師のことはご存知ですか」
ローゼットを既知ならば、同じく帝国の錬金術師であるファントムのことも知っているのではないか。そう踏んでの問いに、マグナファリスは庭を見つめたまま表情を変えず答えた。
「子爵家のか。彼は熱意があったが才能が乏しかった。まったく、ままならないものだ」
少し残念そうに、昔の記憶を覗き込む。
「公爵に拾われたみたいだが、健気に働いているようで微笑ましい」
「……やっぱり」
「ふふ、君と話すと饒舌になってしまうな」
嬉しそうに笑っているが、いまのノアにはそれどころではない。
「――あのナイフは、ファントムさんが」
「さて、本題だが」
喋っているのにも関わらず話を被せられる。マグナファリスにとってされたくない話だったのか、それとも興味のないことだったのか。声の強さに思わず黙らされる。
「君を欲しがっている貴族がいる」
「……錬金術師としてですか」
ファントムについての話はあとで追及することにして、いまはそちらの話に乗る。無視はできない話だ。
「そんなに警戒するな。錬金術師としてではなく、ただの女としてだ」
――言っている意味がわからない。
呆然とするノアを置き去りにしてマグナファリスは続ける。
「つくづく罪深い女だな、君は。一目惚れというやつか。しかし君には心当たりがないようだから、一方通行か」
「その方は随分と酔狂なようですね。お断りしておいてください」
ただの女としての興味を持ってくれたのならば、どうして自分にではなくマグナファリスに話が行くのか。義父であるリカルド元将軍を通してならば理解できるが。呆れて考える余地すらない。
爽やかな風が蒼い髪を揺らす。
端正な造形の唇に、揶揄する笑みが刻まれる。
「君は昔から恋愛とは距離を置いていたな。アレクシスに裏切られた傷はそんなに深いか」
「本題に入ってください」
「そんな君が侯爵と結ばれようとは驚きだ。侯爵の粘り勝ちか」
「本題に入ってください」
「とっくに本題だ」
(これがっ?)
マグナファリスのことは理解できない、手の届かない存在だと思っていた。人よりずっと高位の存在だと。それこそ神に近いような。
まさかこんなことでその認識を改める日が来るとは思わなかった。彼女は案外俗物的かもしれないと。
「いつから仲人みたいな真似をされてるんですか」
「これが二回目かな。どちらも君絡みというのは興味深い」
(一回目は誰!)
「アレクシスだ」
聞いてもいないのに教えてくれる。その名前は心を簡単にえぐった。
唇を噛む。
いまさら動揺させられることが悔しかった。とっくに終わったことだというのに。
「昔のことはさておいて」
「…………」
マグナファリスの瞳がノアを映す。
「君には利用価値がある。自己犠牲精神に溢れる心優しき錬金術師。黄金の湧き出る金脈を色恋で繋いだ侯爵は、まったく大したものだ」
「……そんな言い方はやめてください」
「ふむ。ふたりの間にあるのは真実の愛だとでも? 愛なんてものの愚かさは、君は良く知っているだろう」
「ともかく、お断りします。そんなお話ならもう聞きたくありません!」
強く言うとマグナファリスは言葉を止めた。
「頑なだな」
(誰のせいだと)
叫びかけた言葉を飲み込む。仮にも相手は先生の先生。帝国の中枢にいる錬金術師。声を荒げていい相手ではない。
己を制するノアに、マグナファリスは哀れみの視線を向けてきた。
「エレノアール。わからないのか?」
「わかりません」
「あの男は君に相応しくない」
「逆ならわかりますが。それに、利用しているとしたらお互い様です。私は彼の身分と権力を利用しています」
「自分を安く見積もりすぎだ。そんなに深く愛しているのか? 代替行為にしか見えないが」
「私のことはなんとでも。ですがヴィクトルのことは本人のいるところで話してください」
ここにいない相手を悪しざまに言われるのはいい気はしない。
マグナファリスにとっては忠告のつもりかもしれないが余計なお世話にしかなっていない。
「ふむ。重症だな」
「……先生から見れば愚かかもしれませんが、すべて覚悟の上です。それは、まあ、逃げ出したくなることもありますが」
膝の上に揃えていた手を、ぎゅっと握る。
「それでも、傍にいると決めたんです」
充分考えて、充分時間をかけて、選び取った気持ちだ。
この決意は他人に何を言われたところで揺るぐものではない。
「困ったな。手の施しようがない」
そのため息は軽く。
「仕方ない。受けてやることにするか。面白そうでもあるしな」
ぞくりと背筋に悪寒が走る。
ノアの周囲の気温が急激に下がっていく。
暖かな陽光の中、身が凍るほど、肌が切れるほどに。
――寒い。
「私はこれでも君に同情しているんだ」
声が鐘の音のように反響する。深く。深く。
「好いた男に裏切られ、恋した男に利用され、知らぬ男に罠にかけられ。本当に男運がない」
否定しようとしても、口が動かない。
マグナファリスはにやりと笑う。
「せめて愛してくれる男に守ってもらえ」
眼が金色に光る。
マグナファリスの纏う導力が、動く。
ノアは反射的に導力を練り、伸びてくる導力を弾いた。
「私に逆らうとは、やはり君は見どころがある」
ピシリ、と全身に痺れが走る。
息が詰まった。身体が動かない。
「だが、弱い。哀れなほどに」
導力回路は生きている。マグナファリスの神経を麻痺させ、その間に自身を回復させ、逃げなければ。
「逃げたり人を呼べば、その者たちの記憶も消す。どこまで消えるかな」
記憶も。人格も。
マグナファリスは消せる。そして躊躇なく消す。仮面をつけたカイウスがそれを証明している。
(――いけない)
ヴィクトルやレジーナには守るべきものがある。
責任がある。
人の上に立ち、導く役目がある。
記憶は生きた証だ。
失えば、その人ではなくなる。
巻き込むわけにはいかない。
伸ばした導力はマグナファリスに触れることなく、その手前で霧散する。己の手で、消した。
「安心しろ」
降り積もる雪のように冷たい慈しみの言葉。
死を告げる言葉。
指先から凍り、口も、心も、思考も凍る。
「本当の名前を呼ばれれば、記憶は蘇る」
それは三百年前の時代に置いてきたもの。
エレノアールは個人としての名だけだ。家名も、隠し名も、この時代には一切持ってきていない。
マグナファリスの言葉は疑いようもない真実だ。彼女は嘘はつかない。
たくさんの名前が頭の中に押し寄せる。消えたくない。消したくない。消えてしまう。
喜びも、怒りも、哀しみも。
すべて消える。
無くなる。
ようやく理解する。
忘れるということは魂の死だ。
「泣くなエレノアール。これは救いだ」
違う。違う。違う。
こんなものが救いであるものか。
死にたくない。忘れたくない。傍であなたを守りたかった。
未来を切り開く姿を見たかった。
この感情をもっと伝えたかった。
――……
誰かが心の奥で叫んでいる。
その誰かの名は、わからない。






