5-8 残響
髪は結ったまま、髪飾りは外し、服はやや薄手のものに着替える。
貴族らしさは失わせずに動きやすい外出姿になり、ナギを連れて侯爵家の馬車で郊外の孤児院に向かう。ヴィクトルと共に。
馬車の中でヴィクトルの隣に座りながら、向かいに座るナギの様子をうかがう。
そわそわと身体を揺らしながら外の景色を見ている。いまから孤児院に行くことを伝えた時には少し渋っていたが、やはり楽しみの方が勝るらしい。
帝都の郊外に出て、丘に続く坂道を進む。眩しいほどの陽光が降り注ぐ中を。
徒歩で来たときは苦労した道は、馬車ではとても快適なものだった。
丘の上に到着し、馬車を降りると爽やかな風が吹いていた。花の香が混じる緑の中に、先日見たときと何も変わらず孤児院があった。
外の庭では、子どもたちと一緒に遊んでいる赤い髪の女性、レジーナがいた。
「あ、ノア!――と、いま飛ぶ鳥を落とす勢いの、その威光まさに昇る太陽のごとき侯爵閣下!」
(長い)
レジーナは子どもたちに囲まれながらこちらにやってくる。
「本当に片時も離れないのね」
「その噂誰が流したんですか」
「さぁて?」
とぼけた顔で目を逸らし、ノアの後ろに隠れるように立っていたナギを見つけた。
「あなたは――」
「あ、ナギだ!」
レジーナを囲んでいた子どものひとりが嬉しそうに声を上げ、ナギに駆け寄ってくる。その数はあっという間に増えて、十人の子どもがナギを取り囲む。
最初は戸惑っていたナギだったがすぐに肩の力が抜け、笑い、打ち解けて、子どもたちに引っ張られるように遊びに混ざりにいった。
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ナギが子どもたちと遊んでいる間、レジーナはヴィクトルとノアを院長室に案内した。
院長室の隅には来客を歓待するための、応接スペースがある。
「子爵。孤児院を引き継いでくれたこと、感謝している」
ソファに座ってすぐ、ヴィクトルはレジーナに礼を言った。
この孤児院は元々はローゼット・デルフィーク伯爵の所有するもので、帝都で唯一獣人の孤児も保護している場所だった。
伯爵は、数日前に起きた屋敷の火事で死亡した。他に家族もなく、使用人も全員火事に巻き込まれ、生き残った者はいなかった。
所有者のいなくなった孤児院は、伯爵と親交のあったレジーナ・グラファイト子爵が引き継いだ。伯爵家の火事の後、孤児院の院長と元居た職員も行方不明となったため、いまはグラファイト子爵家の使用人が子どもたちの世話をしている。
「他ならぬ侯爵様の頼みですし、うちのお財布は痛まず、慈善家の肩書きが増える超好条件ですから気にしないでください。あ、子どもたちの支援と就職先の世話はお願いしますね」
「もちろんだ」
表向きの運営者はレジーナ・グラファイト子爵。
出資と支援はヴィクトル・フローゼン侯爵。
領地で獣人を広く受け入れているヴィクトルが直接孤児院を運営すれば、いらぬ憶測を呼んだり政敵に目を付けられる可能性もある。そのため、帝国内でも由緒正しい血と歴史を持つ子爵家に表向きの運営者になってもらった。
「侯爵様が来られると帝都の経済が活気づくんだけど、今回はまたすごいですね。いくらくらい動いているんですか」
「古き血も良いが、新しい血がなければ経済は壊死する。変化を求めるのは人の道理だ」
経済の話をしているが、国と貴族に対する含みがある。
「いくらくらい動いているんですか」
「さて」
レジーナは諦めたように頭を振り、身体ごとノアの方を向く。
「ノアはどうしたの? なんか言いたそうな顔」
問われ、口にするか迷う。
「レジーナさん、ファントムさんのことを教えてもらっていいですか」
逡巡は短かった。
レジーナはファントムと関わりがある。それもかなり深い関わりが。
巻き込むことへの罪悪感はあったが、『賢者の石の失敗作』によるこれ以上の被害を食い止めたいという気持ちの方が勝った。
「ん? んんー」
レジーナは困ったように唸り、ちらりとヴィクトルを見る。
「私のことはいないものと思ってもらえればいい」
「何? またあいつノアに迷惑かけた?」
無理と思える提案をあっさりと通し、ヴィクトルを完全に意識の外に置いて聞いてくる。
「いえ、そういうわけでは」
「ならいいんだけど」
前のめりになっていた身体を後ろに戻し、腕と足を組む。
「大層な名前を名乗っているけど、本名はフェリク。あたしの弟」
森の緑を思わせる瞳は、レジーナとファントムに共通した色だ。纏う雰囲気も、顔立ちもどこか似ている。血と、育ってきた環境で形成されたものだろう。
だから驚きはなかった。
「いつの間にか家を出て、錬金術師とやらになって、どこかに行っちゃった。まあ多分ロクでもないところでロクでもないことしてるんだろうけど」
肩をすくめて、瞼を下ろし首を振る。お手上げと言わんばかりに。
「あたしもいちおう警察してるし、ほぼ私情で捕まえようとしたんだけど、なかなか逃げ足が速くって。全然捕まらないのよこれが。おかげであたしが爵位を継ぐ羽目になったってわけ」
「そのロクでもないことに心当たりはありますか」
「おおぅ、ぶっこんできますわね」
口端が引くついている。しかしそれはすぐに固く結ばれ、レジーナは首を横に振る。
「知らない。――いまのあたしにはこれだけしか言えない」
「わかりました。ありがとうございます」
追及はしない。
ロクでもないところが公爵家や高位貴族なら、レジーナには言えない。子爵は多くの守るべきものがある。家、使用人、領民、名誉、誇り。そして家族。
帝国の権力の中枢に真正面から敵対することなどできない。ましてファントムが弟だとしたら尚更だ。
ノアが引いても、レジーナの表情は晴れない。
曇天のような表情で、ソファにもたれかかり、足を組みなおす。
「……連れてきたあの子、あの手の子?」
ナギの右手は、呪詛の道具として侯爵邸に送り付けられた。その手を回収していったのは、警部のレジーナだ。
長い袖に隠れていたナギの右手に気づいたときの、強張った表情を思い出す。
レジーナはナギたちが路上生活をしていたときから、ナギたちのことを知っていた。
「ローゼットが何をしていたか、あたしは知らなかった。警察してなきゃ一生知らなかったでしょうね」
火事の翌日、大皇宮での夜会の前日、ノアはヴィクトルと共にレジーナに会った。レジーナは孤児院の運営を引き受ける交換条件に、伯爵家の火事の真実を求めてきた。
ノアは迷った末、灰に隠された真実を話した。伯爵家が受け継いできた、呪いのこと、暗殺のことを。
「笑うわよね。知ってもなお、憎みきれないのよ」
吐き出されたのは自嘲か、懺悔か、涙か。笑いながら泣いているような表情だった。
孤児院を引き継いだのは、レジーナなりのけじめであり、贖罪なのかもしれない。
「当主様、お話し中に失礼します」
規則正しく柔らかなノックと、女性の声が院長室に響く。
「邪魔をする」
返事も待たずに無遠慮に扉が開き、白いローブの女性が強引に入ってくる。
「先生?」
ノアは驚きで立ち上がる。それは紛れもなくマグナファリスその人だった。
ヴィクトルは座ったまま微動だにしなかったが、レジーナの驚きはノア以上だった。マグナファリスのことを知っているのか、緊張で全身が硬直している。
「どうしたんですか先生」
「うん、君に言い忘れていたことがあってな」
背後や周囲に従者の姿はない。ひとりでノアに会いにきたようだ。よほどの火急の用なのだろうか。それとも単なる気まぐれか。
マグナファリスはヴィクトルを見る。
「申し訳ないがお借りしてもいいだろうか。なに、すぐに済む」
無言の視線をマグナファリスは承諾と受け取った。
「いい天気だ。外で話そうか」