5-7 父殺しの王
マグナファリスの乗った馬車が、侯爵邸から大皇宮に向かって走っていく。マグナファリスは仮面の従者を連れて、あのナイフを持って、帰っていった。
ノアは玄関先まで出てそれを見送った。
遠ざかる馬車を見ているうちに、張りつめていた気が緩み、ため息とともに肩が落ちる。
「大丈夫か?」
「ありがとう、大丈夫」
ヴィクトルの気遣う声に、笑って答える。
「ヴィクトルがいてくれてよかった」
心の底からそう思った。
ひとりだったらマグナファリスの迫力と、紡がれる言葉に呑まれていたかもしれない。傍にいてくれたからこそ、取り乱さずに済んだ。
「それは、良かった」
本当に嬉しそうに微笑むものだから、思わず目を奪われた。
その顔はすぐに真剣なものに変わり、マグナファリスの余韻を見つめる。
「多くのことを惜しげもなく教えてくれるものだな」
「先生は教えるのと、人を混乱させるのが好きだから」
微妙に苦い顔をする。
「それでも嘘はつかないから、信頼できると思う」
「信頼……か」
皇帝の真意も、賢者の石の失敗作についても、カイウスのことも。
与えられた多くの情報は重要なものばかりだ。ひとりでは手に余るものばかり。そしてどれも嘘などではないだろう。
だからこそ頭が痛い。これから起こるであろう嵐に、胸が震える。
少なくとも、賢者の石の失敗作による被害は、これからも起こるだろう。何本あるかも、どこにあるかも、誰が広めているかもわからない。その目的も。
「ヴィクトル、これから部屋に行ってもいい? ふたりっきりになりたいの」
侯爵家の主人の部屋ならば邪魔は入らない。
誰かに話を聞かれる心配もない。
「カイウスのことは、ヴィクトルにはどう伝わっているの」
安心してふたりきりになった直後に、立ったまま話を切り出す。
フローゼン家に伝わる歴史には、いまの帝国史には書かれていない、王国の詳細な出来事が伝わっている。
ノアはいつでも聞ける立場にいながら、最初の時以来、それを聞くことはなかった。
ノアにとって三百年間の歴史とは、かつて生きた時代の未来であり、もう触れられないものであり、逃げた罪を突きつけられるものだった。
しかしもう目を逸らすわけにはいかない。
「カイウスは、英雄王と呼ばれた王だ」
ヴィクトルは僅かな沈黙の後、そう話し始めた。
「父アレクシスの起こした戦争によって乱れた国を正すため、十三歳の時に父を討ち、王位に就いた」
「十三で……」
いまのカイウスの外見年齢もそのくらいだった。まだ未成熟な、あどけないとも言える少年のときに行動を起こしたことに、驚愕する。
「民衆からは英雄王と呼ばれ歓迎されたが、戦争は収まることなく、長い戦の末に帝国によって王国は滅びた――とされている」
「先生の話と合わせると、アレクシスを討ったときにはもう不老不死になっていたということね。アレクシスの作った賢者の石と、私が国に納めた万能薬を使って、不死の霊薬エリクシルを作って」
マグナファリスの話を思い出し、繰り返す。
「帝国に渡った先生の手によって、地下にあの姿になったアレクシスと共に封印されて……戦争は終わった」
アレクシスは、あらゆる神性生物の特性を取り込んで、キメラの王の姿となっていた。
自ら望んでああなったのか。他の錬金術師の手によりああなったのか。真相は闇の中だ。
(まさか、カイウスが関わっている……?)
考えたくない想像に、思考が停止しかける。
考えたくないことを考えなければ、不測の事態には備えられない。常に最悪を想定するのも必要なことだ。
マグナファリスの言では、カイウスは才能のある錬金術師だった。実の父に対して非人道な実験を行ったとは考えたくないが、頭の片隅には留めておく。
倫理観だけでは錬金術師の探求心を縛ることはできない。
(それにしても)
滅びた王国の王と錬金術師が帝国の中枢にいるというのは、とても危ういことのように思える。
不安定な均衡が崩れれば、取り返しのつかないことになるのではないかと。
これもまた考えたくないことで、考えておかなければならないことだ。
「もし。もし、万が一、カイウスが記憶を取り戻したとすれば、何をすると思う」
「マグナファリス殿への復讐と――帝国の滅亡を望むだろうな」
「同感」
封印から放たれてすぐにマグナファリスを討とうと動き、あっという間に阻止されたのなら、より強烈にそれを望むだろう。
しかも記憶がない間に、憎い相手に従者として使われ、遊ばれている。
最悪の事態は容易に想像できた。
「…………」
ヴィクトルは黙し、腕組みをして壁に背を預ける。その顔は険しい。
「何故、己に復讐を果たそうとするものを傍に置いているのだろうか。理解できない」
ヴィクトルの懸念は充分に理解できる。しかしノアには、マグナファリスの愚行と思えるような行動もなんとなく理解できた。
「殺せば、そこで終わってしまうもの」
死んだ人間は生き返らない。
「少なからず仲間意識みたいなものはあるから。傍に置くのはそういう、監視の意味もあるだろうけど、情みたいな?」
ノアも自分を殺そうとしてきたグロリアを、猫の器に閉じ込めるだけで済ませた。
消滅させてしまうこともできたが、最後の瞬間迷いが生じた。だから、殺さなかった。
いつかこの選択がノアを滅ぼすかもしれない。
それもすべて受け入れての選択だ。
マグナファリスが危険性をわかっていないとは思えない。おそらくマグナファリスは、それでもいいと思っているか、カイウスに――その他の誰にも、己を害することはできないという自信があるから、カイウスを傍に置くのだろう。
「あなたたちは神に近しいのだな」
「そんな大層なものじゃなくて。それにヴィクトルだって人のこと言えないでしょ。あなたのやさしさは、私も知ってるもの」
目線が合い、微笑む。
ヴィクトルは壁から背を離し、ノアの前に立った。
距離の近さに思わず半歩、後ろに下がる。
「えっと、これからナギと一緒に孤児院に行ってこようと思うの。友だちに会いたがっていたから」
「では私も供をしよう」
「侯爵様ッ?」
「出資するのだから視察は当然だ」
そしてその出資を頼んだのはノアだ。
「わかりました。準備してきます……」
「あと、夜には蒸気機関の研究者と会う予定がある。できればあなたにも同席してほしい」
「本当? ありがとう! うわぁ、すごく楽しみ!」
喜びと期待に声が弾む。
蒸気機関はノアの期待する新しい動力だ。実現化の道は長いかもしれないが、実用されていけば確実に世界の在り方は変わる。
未来のことを考えると心が弾む。
「ノア。あなたの瞳は、内に流れる熱き血潮を映しているかのようだ」
顎に指が添えられ、軽く持ち上げられる。
「その熱に私は魅せられた」
青い瞳が、深く覗き込んでくる。
一瞬で。
一瞬で顔が熱くなる。
「あなたの抱えている問題はすべて、私にも関わりがあるものだ。遠慮などせず、思う存分私を使うといい。私は永遠にあなたの味方だ」
胸も頭もいっぱいになって、何も考えられない。思わず目を閉じる。すると瞼に柔らかいものが触れた。
瞼に口づけをされたのだと気づいたのは、ふらふらになりながら自分の部屋に戻った後であった。