5-6 かつての赤子
ノアの知るカイウスは、生まれたばかりの赤子だった。出産直後に双子の妹であり王妃だったエミリアーナが亡くなり、それからすぐノアは時の止まった部屋で長い眠りに就いた。
カイウスが生きているはずがない。あれから三百年が経った。
しかしここにはあの頃と姿の変わらないマグナファリスと、ノアがいる。
カイウスも、なんらかの方法を使って人の定められた寿命を超越していたとしても、ありえない話ではない。
――だがそんなこと考えたくもない。
(まさか……まさか、そんな)
思考が、嵐の海に投げ出されたかのように乱れる。心臓が激しく脈を打つ。
震える手に、ヴィクトルの力が込められる。
――ああ、そうだ。
ひとりではない。
「何のことでしょうか」
カイウスと呼ばれた仮面の少年は、温和な声でマグナファリスに聞き返す。
「……やれやれ、少しやりすぎたかな」
ばつが悪そうに腕を組み、首を傾げる。蒼い髪が流れるように揺れる。
「仮面を取れ」
「はい」
快い返事と共に仮面を外す。
金色の髪が揺れ、青い瞳が光に照らされる。
微笑みを湛えた凛々しい顔は、アレクシスの幼いころにそっくりで。目元はエミリアーナによく似ていて。
ふたりの間に生まれた子が育ったら、こうなっているだろうという想像そのものの姿をしていた。
「……カイウス?」
信じられない気持ちで名前を呼ぶ。
「はい」
快活な声で答える。
しかしその瞳はノアを映してはいない。
目の焦点は合わず、虚空を見ている。
本当に本人なのか。
本人ならばどうして生きているのか。
そしてどうしてマグナファリスの従者になっているのか。
どうして、壊れてしまっているのか。
「彼はな、父親の作った賢者の石と、君の作った万能薬を合成し、不死の霊薬エリクシルを作った」
エレノアールの万能薬は国に納められた。
本来ならば王妃エミリアーナに使われたであろうそれは使用されることなく、エミリアーナは死に、薬は残った。
そしてそれをカイウスが使ったということか。
「不死となったカイウスは、まず父を打ち倒して隷属させ、その後も歴史の裏で王国を支配してきた。赤い空の下で」
「…………」
「そのうち私にまで牙を剥いてくるようになったから、私は王国を出た。そして帝国に協力し、カイウスとアレクシスだったものを王城の地下に封印したのだが」
「封印を解いたのは君か? 黒のエレノアール」
「霊廟奥の、玉座ですか」
絞り出した声は震えていた。
王城の地下には王の霊廟があり、そのさらに奥には玉座があった。
石造りの、誰のものでもない玉座が。
「そのとおりだ。アレクシスは君が倒したのかな? 君に殺されるのなら本望だっただろうな」
「どうでしょう。アレクシスにとっては、私は憎い存在だったと思いますが」
「まだ拗ねているのか」
「拗ね――?」
「少しはアレクシスの気持ちも考えてやったらどうだ。おっと、失礼した。婚約者殿の前で言うことではなかったな」
ヴィクトルに視線を向け、にやりと笑う。
「話を戻そう。封印から放たれたカイウスは、性懲りもなく私を殺しに来た」
マグナファリスの言葉は俄かには信じがたいことばかりだったが、その件は納得することができた。己を封印し、王国滅亡の決定打を与えた錬金術師に、復讐心を抱くのも無理もない、と。
「だから記憶を全部消してやったのさ。玩具としてはちょうどいい。見ているだけで愉快になるし、なかなか使える」
軽い調子で恐ろしいことを口にする。
ノアは改めて、目の前のふたりの姿を見た。
悠然と座る、蒼い髪、緑と金色の瞳の、二十歳前後に見える女性。
その背後に立つ金の髪、青い瞳の、十代前半の少年従者。
優雅な佇まいはまるで一枚の絵画のようで、そして歪な光景に見えた。
マグナファリスにとっては、かつての王も、復讐者も、玩具に過ぎないのだと、その目を見ればわかった。
「どうだエレノアール。甥との感動の再会は」
「……先生」
声が掠れる。何も言葉が出てこない。
マグナファリスは満足そうな笑みを見せる。その顔こそが見たかったと言わんばかりに。
「侯爵はどうだ。英雄である父祖との対面は」
「マグナファリス殿は私が思っていた以上に、底の知れない御方のようだ」
「さて、案外下らない存在かもしれないぞ」
言って、手付かずだった紅茶を手に取り、香りを楽しむように一口飲む。
「それにしても侯爵は落ち着いていらっしゃる。エレノアールを娶ろうとするのだから、それぐらいの器でないとな」
優雅な動作でティーカップを置き、後ろの従者を再度振り返る。
「さてカイウス、もう一度だけ確認する。これは君のいたずらか?」
「なんのお話でしょうか、主様」
不思議そうな表情は、嘘やごまかしを言っているようには見えない。その目はやはり、焦点が合っていない。
最早カイウスは記憶も人格もないのだと、その目が示している。
ぞっとした。こんな恐ろしい力は知らない。
マグナファリスはいままでもこうやって、都合の悪い相手の記憶を改ざんしてきたのではないか――そんな疑念が生まれた。
そしてもうひとつ。
(錬金術で、こんなことが可能なの?)
記憶を消し去る錬金術なんて、聞いたこともない。
マグナファリスは本当に錬金術師なのだろうか。そもそも人間なのだろうか。
「やれやれ、まっさらにしすぎたか」
「……記憶を戻すことはできるのですか」
「秘密だ。そもそも戻してどうする?」
「話を聞いてみたかっただけです」
「無意味だな。そもそも話が成立するかどうかすらわからないぞ。向こうにとっては君は知らない存在だ」
強く目を閉じる。マグナファリスとカイウスのことは、いまのノアにはどうすることもできない。答えの出ないことを考えても仕方がない。
ノアは目を開き、前に置かれているナイフに再び視線を戻した。
「これを拡散させている人間に心当たりはありますか?」
「君はどう思う」
「……公爵家」
バルクレイ先代伯爵夫人が口にした言葉と、ファントムの行動を見ていれば、背後にボーンファイド公爵家が関わっていることは疑いようもない。
マグナファリスは楽しそうに笑う。
「君は怖いもの知らずだな」
「そうでしょうか。怖いものばかりです」
「平素はそうかもしれないが、戦地ではおそろしいほどの度胸をしているぞ」
「……そうでしょうか?」
「自覚がないのならいい。さて、優秀な生徒にささやかなご褒美だ。その推測は私と同じだよ」
「やっぱり……」
「慌てるな。あくまで推測。証拠もない」
マグナファリスの言うとおりだ。推測だけで公爵家を糾弾しようとなど、話にもならない。
ただの妄言。頭のおかしい誹謗中傷になるだけだ。
「それに公爵家と一言に言っても様々な人間がいる。相手を間違えるなよ、エレノアール。なにせ向こうは、皇帝に次ぐ帝国の王なのだからな」