5-4 皇帝の真意
翌日。
昼前にようやく目が覚めたノアは、朝食兼昼食を取った後、保護したばかりの獣人の少年――ナギの部屋へ向かった。
使用人用の部屋が並ぶ廊下を歩き、目的の部屋の扉をノックし、返事を聞いてから中に入る。
「おはよう」
机にかじりついて勉強していたナギは、左手で握っていたペンを置いて顔を上げる。
「もう昼だぜ。貴族のお嬢様って本当に昼まで寝てるんだな」
「昨日は遅くまで夜会があったから」
「ヴィクトル様はとっくに起きてるよ」
「あの人は休まなさすぎ。はい、診るからベッドに座って」
素直に椅子から立ち上がり、ベッドに座る。
ノアはナギの前にしゃがみこんで向き合い、顔を覗き込む。顔色は良好。少し目の下に隈がある。
「はい、寝転んで」
渋々、といった動きで靴を脱いでベッドに寝転ぶ。
ナギには右手がない。つい数日前、悪意によって切り取られた。治療は既に施してあり、経過も順調だ。それでも問題は出ていないか、新しい傷はないかを慎重に診ていく。
「痛みはどう?」
「ない」
枕元に置いてある、痛み止めの薬が入った瓶を見る。甘い味を付けた丸薬が少しだけ減っている。
「そう。でも、もし痛くなったらちゃんと言ってね」
「もう平気だってば」
「ナギは強いわね。でも、ちゃんと教えてね。私が悲しくなるから」
「ノア様が何で」
「ひとりで痛い思いをさせたくないから」
「……平気、だけど……夜、ときどき、少しだけだけど、痛くなる」
治療に問題はない。痛みが起きてもわずかだろう。それでも失われた四肢が痛むということはよくある。
「教えてくれてありがとう。痛いときはちゃんと渡した薬を飲んでね。耐えられない時はいつでも私を呼んで」
「うん。なあ、終わったなら字教えて」
言いながらベッドから飛び降り、机に向かう。
ヴィクトルに学ぶように言われているナギは、まずは字の勉強から始めている。文字の書き方と、自分の名前の書き方を教わり、繰り返し練習している。その熱心さにはノアも感服している。
ノアもナギの後ろに立って、手習いの紙を覗き込む。
まだ拙いものの、熱意と努力がびっしりと刻まれていた。
「うん、上手。焦らなくていいから、ゆっくり丁寧にね」
ノアも帝国語は覚えたばかりでまだまだ完璧ではないので教師には向かないが、自分が教わったことは教えられる。
「なあ、ノア様たちはいつ帰るの」
うつむき、練習用の紙に向き合ったまま聞いてくる。文字を書く手は止まっていた。
「もちろんオレもついていくけどさ。行く前に一度だけあいつらに会いたいんだ」
あいつらとは路地裏で過ごしていた時の孤児仲間のことだろう。
仲間の少年少女たちは、いまは帝都郊外の丘の上の孤児院で暮らしている。
「帰るのはいつになるかまだわからないけれど、会いにいくのは今日にでもできるわよ」
「うぇ」
呻き、顔を上げる。とても困ったような表情をして。
「行けるときに行った方がいいわ」
「そりゃわかってるけどさぁ……」
心境は複雑なのだろう。
ノアにはナギの気持ちをすべて汲み取ることはできない。だがわかることはある。
「もし突然帰ることになって、会えないままになってしまったら、きっと後悔するもの」
会えるときに会わないと、二度と会えなくなることもある。どれだけ後悔しても時間は巻き戻らない。
「ん……」
頬を僅かに赤く染めて、頷く。
安心したその時、扉の外から声が響いてきた。
「ナギさん、こちらにエレノア様はいらっしゃいますか?」
「うん、いるよ」
返事を受けて、メイドのマリーがすぐさま扉を開けて入ってくる。緊迫した面持ちで。
「失礼します。エレノア様と旦那様にお客様です」
「いま行くわ」
「いいえ、きちんと装いを整えていただきます」
楽な普段着を着て髪も下ろしているノアを見る視線は、厳しかった。
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「私を待たせるとは随分成長したではないか、エレノアール。まだ寝ぼけていたのか」
応接室でソファに腰を掛けていたマグナファリスが、冷ややかな視線でノアを一瞥する。
その背後には仮面の少年が従者として控えていた。
「申し訳ありません、先生……」
メイドのマリーとアニラの手を借りて、できるだけ早く身支度を終わらせた。
待ってくれていたヴィクトルと共に応接室に入ったが、マグナファリスは待たされたことがよほど気に入らなかったらしい。
「私だからいいものの、侯爵の客人を待たせるのは良くない。屋敷内でも急な来客に備え、最低限の身支度をは整えておくものだ」
「はい、ご指導ありがとうございます」
「ああ、では座るといい」
白いローブの袖をひらりと揺らし、テーブルを挟んだ向かいのソファを促す。
――この家の家主は誰なのだろう。一瞬わからなくなる。
しかしヴィクトルは気を悪くする素振りも見せず、貴族らしい笑みを湛えてそれに従う。
「さて、フローゼン侯爵と直接話すのは初めてかな」
「帝国の知の泉である博士に訪問していただけるとは、光栄の至りだ」
「侯爵ともあろうものが、私などに頭を垂れるな。あと博士はやめてくれ」
「なんとお呼びすればよろしいかな」
「ただマグナファリスと」
「了解した、マグナファリス殿」
「うむ。では手土産代わりに侯爵の知りたいことをひとつだけ、答えて差し上げよう」
軽やかな会話の流れのまま、ヴィクトルはマグナファリスを見つめる。
客人の接待をしていたマークスが、すっと部屋から退室していった。
「私が知りたいのは、皇帝陛下の真意だ。何故、秘密裏に錬金術師を集めているのか」
ノアは思わずヴィクトルの顔を見上げた。
遠慮も体裁もなく、いきなり核心を問いかける。
「不老不死」
マグナファリスは端的に答える。冗談かと疑うほど軽く。
短い言葉は、それが真実ならば、皇帝の目的も、これから起こすであろう行動も、すべてを表していた。
ヴィクトルは驚きもせず、マグナファリスの一挙手一投足を静かに見つめている。言葉が真実か、マグナファリスがそのこと自身をどう思っているのか読み取るように。
「皇帝は自分の子どもたちの行末が心配で仕方ないのさ。不老不死となって永遠に守りたいんだ。健気なことだ。これは王の性質なのだろうかな」
蒼髪をさらりと揺らし、揶揄するように笑う。
「私がそれを与えてやらないから、こっそりと悪だくみをしているのさ。まったく、傀儡はどうして愚かな野望を持ってしまうのだろうな。傀儡のままでいた方が幸せだろうに」
深くため息をつき、身体をソファに沈みこませる。
その言葉には現皇帝に対する感情だけではなく、マグナファリスがいままで出会ってきたすべての王に対する思いが込められているように感じた。






