5-2 空中庭園の錬金術師
仮面の少年の後ろについていき、大広間を出る。
「申し訳ありません。フローゼン侯爵はこちらでお待ちいただけますでしょうか」
「そうもいかない。許されるところまでは同行させていただこう」
当然のように同行してくるヴィクトルに、少年は困っていたが説得を諦めて再び歩き始める。
ヴィクトルの腕を借りて、人の気配のない廊下を歩く。
今夜の靴はヒールが高く、少しだけ歩きづらい。腕を借り続けられるのは助かったが、少々過保護な気もした。そのことに言及するような余裕はいまはなかったが。
いま頭の中には、仮面の少年のことと、空中庭園で誰が待っているのかということだけしかない。
前を歩く少年の後姿を眺める。
不思議な感覚だった。知らない人物のはずなのに、よく知っている気がする。
緊張よりも懐かしさを覚えながら、長い廊下を歩く。その歩みは、廊下の突き当りの扉の前で止まった。
「それでは、侯爵はこちらでお待ち下さい。エレノア様、奥へどうぞ」
そこは正しく空に作られた庭園だった。
水と緑と花の香りが混ざった清涼な風が、肌を撫でる。
開けた広いテラスに、赤いバラや樹木が植えられ、植物の緑と香りで溢れていた。噴水も作られ、水が緑の間を流れていく。
庭園の中央には屋根のある休憩所――ガゼボがあり、テーブルと椅子が置かれていた。テーブルの上には茶器が並び、女性がひとりでガゼボの下の椅子に座っている。
ドレスではなくゆったりとした白いローブを着て。
背中まで伸びる、夜空を写し取ったかのような蒼い髪が、ノアに気づいて揺れる。
振り返った女性の、緑がかった金色の瞳がこちらを見つめる。
悠久の時を生きていると言われる錬金術師マグナファリスは、三百年前と寸分も違わぬ姿でそこにいた。
その時ノアが覚えたのは、不思議な高揚感だった。浮かれたと言っていい。
「先生」
やっと出会えたその人を、昔と同じ呼び方で呼ぶ。
マグナファリスはノアにとっての先生の先生であり、直接教えを受けたこともある。だから、先生と呼ぶ。それが昔からの習慣だった。
「久しぶりだな、エレノアール。いやいまは、いまも、エレノアか?」
少し硬質な声が、時の流れを感じさせない親しさで響く。
「どちらでも」
「ではエレノアール。手紙まで書いてやったというのに遅かったな。師が来いと言えばすぐに来るものだ。まだ寝ぼけているのか」
「色々とありまして、翌日すぐというわけにはいきませんでした」
長い年月、姿を変えずに生きている割には時間に細かい。
マグナファリスの足下の影が揺れる。白いローブの裾にいたのは、黒猫だった。
「グロリア?」
帝都に到着してすぐにノアの前から姿を消した黒猫は小さく鼻を上げて、またすぐにマグナファリスの陰に隠れる。
「ああ、やはり君が連れてきたのか。連れて帰るか?」
あのグロリアだとわかっていて聞いてくる。
「いえ、私が飼い主というわけではありませんので」
グロリアの精神体を土で作った猫型の器に閉じ込めたのはノアだが、飼い主というわけではない。グロリアの精神はまだ人のときのままだろうから、ノアに飼われることを良しとはしないだろう。
それにしてもまさか本当にマグナファリスのところまで行っていたとは。その行動力に感嘆する。
「君もなかなか面白いことをする。ほら、座るといい」
向かいの椅子を勧められる。
テーブルの上には紅茶とクッキーがきれいに並べられていた。夜会では何も食べていないため、自然と胃がうずく。
星空の下での、静かな茶会。
大広間での夜会の賑やかさが遠い。わずかに聞こえてくる音楽が静寂を際立たせる。
あたたかい紅茶の香りも、蜂蜜クッキーの味も、昔よく食べた懐かしいものだった。
「長い眠りだったな」
「はい、思いがけず」
「無事で何よりだ」
思いがけずやさしい声をかけられて驚く。いまが本当にあの頃から三百年も経っているのかと疑うほどに。自分を封印していたノアはともかく、マグナファリスは三百年を生きたはずなのに、あの頃から何も変わっていない。
「先生はいまは何をされているのですか」
「私はずっと錬金術師だ。己がそうであると決めた時からな」
誇るのでもなく、当然の事実を語るように話す。
「皇帝陛下は、錬金術師を集めていると聞きました」
マグナファリスはおかしそうに、声を上げて笑い出した。
「陛下、陛下か。君もすっかり帝国貴族じゃないか。ああそうだ、リカルド・ベリリウス将軍の養女になったとか聞いたな」
「ええそうです。いつの間にか」
「相変わらず流されやすい奴だ。あいつは――皇帝は、錬金術に夢を見ているからな。私だけでは足りないのさ。なんだ、推薦してほしいのか」
「いえ。宮仕えはもう遠慮したいです」
マグナファリスと皇帝の距離感がよくわからない。
親しいのか、距離があるのか。どちらが上で下なのか。
思えば王国でもそうだった。
マグナファリスは国家錬金術師とはいえ、王とは常に一定の距離を保っていた。積極的に権力や政治とは関わることなく、後進の育成と研究に打ち込んでいた。
「ふむ。どこぞの貴族の婚約者としてドレスを着ることは、宮仕えとは違うのか?」
返答に詰まる。
「まあその相手がフローゼンというのは君らしいが」
「……血筋は関係ありません」
「関係のないものなんてないさ。人は因果に導かれて生きる」
人間ではないような言い方をする。
そもそもマグナファリスは何者なのか。普通の人間は何百年も生きない。
そしてそれを知る人間はいない。少なくともノアの知る範囲では。
マグナファリスは楽しそうに笑いながら、ノアの着ているドレスに手を伸ばし、指先で触れる。
「質のいいシルクだ。今宵の君の装いを見た貴族からの注文が増えそうだな。私も一着あつらえようか」
「フローゼンシルクです。王都周辺は昔からいいシルクが採れていましたよね」
「そうだったか」
「アリオスをつくったのは先生ですか?」
ずっと気になっていたことを問いかける。
滅びた王都の傍にある、城郭都市アリオスの基礎は、錬金術でつくられている。
そして関わっている可能性が一番高いのは、このマグナファリスだろう。
「そうだ」
あっさりと肯定される。
「温泉をつくったのも?」
「もちろんそうだ。あれはいいものだろう」
「とてもいいものです。ありがとうございます」
笑いながら、複雑な心境を紅茶で飲み込む。
王国の国家錬金術師だったマグナファリスが、王都を攻め滅ぼすための拠点の基礎をつくったことが、本人の口から語られた。
そこまで至るのに何があったのかを確認するのは怖い。
長い年月、ノアの知る由もない多くのことがあって。戦争があって、マグナファリスはここにいる。帝都の大皇宮の、空中庭園に。
どんなことがあったのか、いまはまだそれを聞けるほど心の準備はできていない。






