1-9 不死の霊薬
迷い人だろうか。
森の中に建てたばかりの家に、家主を訪ねる人がいるとは思えないが。隠者の術式もかけているのに。
不思議には思ったが、切羽詰まった雰囲気を感じたのでドアを開ける。
そこには、焦った表情の二角黒髪の青年、ニールがいた。背には小型のメイス。
「ノア様! お願いします! 旦那様を止めてください!」
「ちょ、ちょっと待って。落ち着いて」
勢いが。勢いが激しい。
「ヴィクトルがどうかしたの」
様を付けずに呼んでしまったが、ノアは彼の従者なわけではなく、帝国民でもないからよしとする。
「旦那様が、お一人で旧王都へと行ってしまわれて」
「何をしに? まさかあの錬金獣を退治しに?」
あの身体能力があったとしても一人は無謀だと思う。退治しにいく意味も薄い。
ニールは首を横に振る。
「いえ、旦那様は旧王都にあると言われている『不死の霊薬』を、ずっと探していらっしゃるのです」
「不死の霊薬ですって?」
また馴染みのある名前が出てくる。
不死の霊薬――あるいはエリクシル剤。
万病を治し、永遠の命を得られるという、錬金術のひとつの到達点。
(マグナファリスが作ったことがあるとは聞いていたけど)
神代のマグナファリス。
三百年前の時代でも、数十年前から容姿がまったく変わらないと言われていた錬金術師。
だから、伝説として残っていてもおかしくはない。特にヴィクトルは歴史に詳しかった。
「いつもは俺が供をするのですが……今日は、ひどく焦っておられたようで……」
置いていかれてしまったと。
そして慌てて追いかけて、その道中でノアの家を発見したのだろうか。
「ノア様、お願いします。俺では旦那様を止めることができない」
「うん、わかった」
ヴィクトルが逸った理由はなんとなく理解できた。
不死の霊薬。
その存在を知っていて、探し続けていたとしても、昨日まではヴィクトルにとってはおそらく伝説でしかなかった。
しかしノアという錬金術師の存在、そしてキメラの存在とその驚異的な回復力が、伝説が真実だと信じ込ませたのだろう。
――不死の霊薬は実在する。
その薬で妹を治せるかもしれない。
そんな残酷な希望がヴィクトルを突き動かした。
「え、本当によろしいのですか。今更ですが、あの場所は危険種が――」
「王都には行かなければいけないと思っていたの。ちょうどいい機会だわ。準備をしてくるからちょっと待ってて」
ニールを外で待たせ、地下室へ降りる。さて、何を持っていこうか。
信頼している従者の制止も聞かないとなると、ノアの言うことなど更に聞かなさそうだから、道具が必要だ。
ポーチに入れてある縄の具合を確認する。
もし本気で抵抗されると自分もどうなるかわかったものではない。
正直少し怖いが、ニールの頼みは断れない。あれだけおいしい食事をつくってくれたのだ。また食べたいから、関係継続のための努力は惜しまない。
壁にかけていたローブを羽織り、裾を翻す。纏わりつく迷いを振り切るように。
「死んだ人間は治せないの」
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家づくりで余った石材は既に土に返してしまっていたので、また地中から石の成分を呼び出しゴーレムをつくる。
今度は少し肩幅の広い、巨人のようなゴーレム。
「すごい……これもノア様の錬金術なのですね」
息を飲んでゴーレムを見上げるニール。
ノアはゴーレムを片膝立ちにさせて、その肩に座る。
「ニールさんはそっちにどうぞ。この子で王都まで一気に移動するので」
促すと、ニールはやや戸惑いながらも、軽い身のこなしで反対側の肩に乗る。
「それじゃあ王都へ出発ー!」
移動用のゴーレムなので、速度は早め、乗り心地は安定感重視にしてある。
「ところで、どうして私の居場所がわかったの」
森の中を風を切るように走りながら、ニールに問う。ゴーレムの頭を挟んでいるだけで距離は近いので、会話をするのには何も問題ない。
ニールは少し困ったように答えた。
「大変失礼ながら、匂いで」
「え」
引く。
「あ、違います! 大変いい匂いだと思います!」
引く。
「その、俺は人よりも匂いに敏感なようでして」
「ああ……なるほど」
混ざっている獣の特徴なのだろうか。
それにしても匂いとは。昨日浴場を借りたし、服も洗濯してもらったのだが。
(あの大きなお風呂、良かったなぁー。温泉だって言ってたなぁ。また行きたいなぁ)
思いを馳せていると、今度はニールが聞いてきた。
「……ノア様は外の国から来られたと聞きましたが、獣人のことはご存じですか」
「知ったのは昨日が初めて。というか様とか付けないで」
「そんな恐れ多い」
恐れ多いとは?
首を傾げる。王国の侯爵令嬢だったことは誰にも言っていないし、三百年前の時代から来たことも、おそらくニールは知らないはずなのだが。
「ごく普通に接してくださることに驚きました。我々は忌避の目に晒されることが多いですから」
「最初は少し驚いたけれど、ニールさんはいい人っぽいし。つくってくれるご飯もおいしいし」
いきなり切りかかられるようなこともなかったし。恐れるようなことはない。
ニールは笑う。どこか寂し気な顔で。
「この国では長年、獣人は奴隷扱いでした」
「……奴隷?」
風に紛れて聞こえた言葉は、耳を疑うものだった。
「はい。法では禁じられていますが慣習として。罰せられることもありません」
「…………」
胸がざわざわする。
奴隷という言葉や制度は知っていても、ノアは実情を知らない。
しかし獣が混じった人々――獣人と呼ばれる人々を最初に作ったのは、ヴィクトルの話では王国の錬金術師なのだ。
王国と錬金術師の罪が長年多くの人々を苦しめてきたことを、いまようやく知った。
胸が、苦しい。ゴーレムの頭に添えている指が震えていた。
「獣人を奴隷から解放してくださったのが旦那様です」
「そうなんだ……」
「はい。領地に獣人を広く受け入れ、仕事を任せ、生活が成り立つようにして。いまも奴隷商に獣人が攫われないように取り締まっているのです」
「…………」
「旦那様は我々の英雄であり希望なのです」
ヴィクトルが街の人々から受けていた視線の意味をようやく知る。
彼は領主であり、ニールの言うとおり希望だ。
闇夜の篝火のようなものだ。失っては、進むべき道も、己の手足も見えなくなるような。
ノアよりもよっぽど高貴な魂の持ち主だ。
そんな貴族がひとりで危険な場所に行くなんて。
「それは絶対連れて帰らないとね。私が縄をかけるから、ニールさん引っ張るのお願いね」
「あの、できればもう少し穏便な方法で」
注文が多い。
「ところで危険種って?」
不穏な単語をニールが言っていたような気がして確認する。
「……旧王都には錬金獣のような怪物が時折姿を見せるのです。そのため、領民には近づかないように厳命しているのです」
「なるほど。まあ、何とかなるでしょう」