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4-22 スキュラは哀歌を唄う




 虚空より、ローゼットの右腕の下に、影が生まれる。犬の形をした漆黒の影が。

 音なき咆哮を上げ、爪と牙を剥き出しにして、巨大な影がこちらへ襲い掛かる。

 ヴィクトルはそれを剣の一閃で斬り払った。

(相変わらず常識が通じない)

 剣の刃の先にまで、生命の力が伝わっているのだろうか。


 霧散する影からナギを後ろに庇いながら、犬の身体を構成していた呪素を分解する。呪詛の犬は呆気なく消えた。

「ああ、なんてこと!」

 ローゼットはぞくぞくと身もだえる。

「呪素を操っていらっしゃる。こんな華麗に……貴女様は本当に、黒のエレノアール様ですのね!」

 頬が紅潮し、瞳が歓喜に震えている。


「私を知っているの?」

 妙に名前に反応しているのには気づいていたが、本名と二つ名を呼ばれると流石に聞き捨てならない。

 この時代に来てからその二つ名は一度も名乗っていない。

「もちろん! 王国の至高の呪素使い様でしょう。知らぬはずがありません」

「そっち?」


(こんなことで名前が残ってるの? 万能薬をつくった錬金術師としてじゃなく? 信じたくない)

 地味にショックを受ける。

 落ち込むノアとは対照的にローゼットは大きく手を伸ばして天を抱擁する。

「今日はなんて良き日でしょう。運命の女神よ、感謝いたします」

「ともかく、知っているのなら話は早いわ」


 憐みの目がノアに向けられる。

「無理はなさらないで。魂も、御身も、もうぼろぼろではないですか。わたくしどもの至高の呪詛に抗うために、侯爵を助けるために、命を削られたのでしょう?」

(よく見えている)

 否定しても仕方がない。ヴィクトルに知られるのは避けたかったが、何か言うほど肯定するようなものだ。


「誘惑し、婚姻によって取り込み、利用し尽くすなんて。なんて不遜な御方なのかしら」

「私がどんな状態だろうと、あなたは勝てない。諦めて」

「勝敗なんて」

 胸に刺さったナイフの柄を撫でる。


「わたくしの命は今宵終わります。わたくしの死の淵の望みは、エレノア様が黒のエレノアール様かを確認すること、侯爵を見定めること、そしてデルフィークの誇りを守ること……」

 階下から熱が立ち上ってくる。

 窓の外が炎の赤さを帯びてくる。

 火は広まり続けている。これ以上時間をかけてはいられない。


「誇りを守るとは、すべて灰塵に帰すこと? それだと一時的には隠せても、守ることはできないわ」

 ローゼットは赤い唇に指先で触れる。

 窓が割れ、突風が吹く。冷たい雨の混ざった風と、熱い火の粉を含んだ風が。

 その風と共に黒い犬が走る。三匹の犬が生まれ、主の命令に従うように廊下を駆ける。


 ここまでは想定通り。

 挑発して力を使わせて、押し留める。

 呪素の動きを静止させると、三匹の犬は時が止まったように空中に固定された。

 このタイミングでローゼットの隙を突いて――


 ――隙をついて、どうするのか。

(殺す?)

 その衝動はやけに非現実的なものだった。

 喉元に刃を突き付けられたかのように、思考が凍る。ローゼットに伸ばすはずだった導力が行き先を失う。


 ――殺すべきだ。殺し方なんて何通りも知っている。

 ローゼットは既に死を受け入れている。命を絶たなければ止まらないだろう。

(殺せる?)

 可能か不可能かではなく。

 人の姿をした相手を。人の心を持った相手を。

 手にかけることができるのか。


 いままで対峙してきた超越者たちは、人の姿を失っていたから戦えた。人ではないと、もう戻れないと、自分に納得させていた。

(――いまさら、こんなことで!)


 迷った一瞬の間で、ヴィクトルの剣が呪詛の犬を斬り払う。三匹とも。

 愕然とする。

 躊躇してしまったことに。

 踏み込むべきところで踏み込めなかったことに。


 ヴィクトルは更に奥へ進み、ローゼットを間合いに捕らえ、胴を薙いだ。

 腹部を大きく斬られたローゼットは、血と内臓の一部を零しながら、床を蹴り、廊下の奥へ後退する。

「ふふ……わたくしの命をかけても届かないなんて。世界は残酷だわ」

 皮一枚で繋がっているような状態で、炎が迫りくる中で、物憂げにため息をつく。明日の天気を心配しているかのような呑気な様子で。


「もう一歩進めば、また新しい景色が見れるのかしら」

 腹の傷をさすり、胸のナイフを愛し気に撫でる。

 どくん、どくんと。

 誰のものかもわからない、心臓の音が強く響く。


(もうやめて)

 声にもならない意思が届くはずもなく。

 青いドレスが更に深い黒に染まっていく。ローゼットの身体を構成する物体が変わっていく。人体ではありえないものに。


 毒の海に沈んだかのように足下から崩れ、上半身はそのままで、腰部から異形のものが生える。

 犬の上半身が。頭と前足と上半身のみの犬が、六匹。ドレスの裾から這い出す。代償のように足は消えていて。

 それは伝説で語られるスキュラの姿だった。



##



 透き通る白い肌、たゆたう黒い髪、漆黒の双眼、美しい女性の腰から生える、六匹の黒い犬。

 周囲には呪素が渦を巻き、すべてを死の海へ引き込もうとしている。

 吹きすさぶ嵐の中でも火事の炎は衰えることなく屋敷を燃やしている。


「ナギを連れて逃げてくれ」

 背を向けたままのヴィクトルの言葉を、ノアは拒否した。

「できない」

 必ず助けると誓ったのだ。ナギのことも、ヴィクトルのことも。

 そのためになら命さえ惜しくない――


「そんなことはしなくていい」

 ヴィクトルは変化し続けるスキュラに対峙し、剣を握ったまま続ける。

「あなたの手は生かすためにある」

 それは冷えた水のように、乾いた心と身体に染み込んだ。

(心を読まれた……)

 熱くて痛い。


 ノアは水分を生成し、場の、特にナギの周囲の温度を下げる。階段からの火が上って来ないよう階段の入口を錬金術で埋める。

(視野が狭くなっていた……)

 この力は殺すよりもよほどたくさんのことができる。

 戦うよりも多くのものを生み出せる。


(私のすべきこと、できること)

 それは守ること。

 屋根に穴を開け、雨を直接屋敷内に降り注がせる。床と柱、足場を補強し、崩れ落ちないようにする。


 その間もスキュラの身体は変わり続ける。構造が変化し、粘土細工のようにうねり続ける。

 ノアは違和感を覚えた。

 腹部の傷が塞がっていない。その部分からは大量の液体と肉塊が零れ落ち、下半身の犬の上を伝い、床に落ち続けている。

 か細い喉が血を吐く。


(自壊している?)

 雨に打たれながら苦しみもがくように全身をうねらせて、人体ではありえない方向に、前後左右、斜めにねじられ、歪み、軋み、それでも再生しようとしている。

 悲痛な声を上げながら。


「どうすればいいんですか」

「ナイフを抜けば止まるはず」

 かつて戦ったメドゥーサはそうだった。イフリートはナイフを炎で溶かし完全に取り込んだため分離できなかった。

 あのナイフが人を超越したものに変えているのなら、ナイフを抜けば止まるはず。

 普通に答えたあと、その相手がクオンだと気づく。


 いつの間にか廊下に来ていたクオンが――近くの階段は封鎖しているため、別の場所から回り込んできたのだろうが――ノアの後ろからスキュラへと近づいていく。

 躊躇うことなく、怯むことなく。

 目の前にいるのに見失いそうな不思議な存在感で、ヴィクトルの横を通り、スキュラの――ローゼットの前に立つ。


「失礼します」

 胸のナイフを手早く引き抜く。

 それが運命であり願いだったかのように、自然な流れで。

 血が噴き出し、赤い花が咲き、全身がロウが溶けるように崩壊していく。


 ローゼットは微笑んだ。口から血を吐きながら。

「……あ、ああ、なんてこと……あなただけは違うと思っていたのに」

「申し訳ありません。駄犬はより強い主君を戴きたがるものですので」

「……裏切られ、滅びる……これがわたくしの結末ですのね」


 滅びの運命を受け入れた表情は、苦しみと終焉への喜びで織りなされていた。

 青い瞳が水底の輝石のように輝いた。

「深き地の底でお待ちしておりますわ」

 その身体は砂になって崩れ、舞い上がる火の粉とともに塵と消えた。




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