4-20 呪いの歌
嵐の前触れか。強まった風が窓を揺らす。
入り込んだ風の鳴き声が伯爵邸の応接室に響く。
「呪術を用い、呪い殺す……これがデルフィークの家業です」
歴史ある伯爵位を継いだローゼットは、美しい顔に整った笑みを浮かべ、扇で口元を隠した。
「この家業のせいか一族はみんな夭折し、残っているのはわたくしだけ」
呪素は魂を蝕む。
薄い呪素でも遅効性の毒のように魂を削っていく。毒に浸される日々を過ごせば、命の花は呆気なく散るだろう。
「ですがやめることはできません。これがわたくしの生き方なのです」
ローゼットは狂気と誇りを抱いて生きている。彼女にとっては絶対的に正しい道を。連綿と受け継がれる血と力を以って歩き続けている。
他者から見てどんなに狂った様であっても、ローゼットの瞳は揺るぐことなく前を向き、ヴィクトルを見据えている。
「孤児院の運営は使用人の育成のためです。宴は、必要だから開催されてきました。ずっとずうっと昔から」
問いの一つ一つに答えていく。誠実なまでに。
「ですがもう二度と貴方様には手出ししません。どうかお忘れいただけませんか」
「このまま帰ることはできない」
ローゼットの細い眉が歪み、不快さを表す。
「そちらの家業は犠牲を生み続ける」
「すべてを手放せと? 何の権利がございまして?」
「そちらこそ」
喉の奥で笑う。ヴィクトルの目には強い感情が宿っていた。それは怒りだ。
深き海の底で燃え続けるような、静かで激しい、純然たる怒り。
「身寄りのない子どもを攫って暗殺者に仕立て上げ、見込みのないものは呪詛の生贄にする。これ以上見過ごすことはできない」
(暗殺者……?)
ヴィクトルの言う暗殺者には、ノアにもよく心当たりがあった。
この時代で目を覚まして、最初に遭遇した人間。それはヴィクトルの命をあと一歩のところにまで追い詰めた獣人の暗殺者だった。
その後も、ヴィクトルを狙う獣人の暗殺者を何度も見た。彼らの死を、自死を、何度も見た。
(ローゼット様が、あの暗殺者たちを?)
育て、差し向けてきたというのなら――。
ローゼットは悠然と微笑んでいる。貴族は人前で動揺したりはしない。
帝国の正統なる貴族を自負するならば尚更。
「それは正義からですか? だとしたら」
声に嘲笑を含ませ、右手を上げる。壁際に控えている使用人たちを示すように。
感情を見せずに立ち続ける、獣人の使用人たち。
その表情はかつて相対した暗殺者たちとよく似ていた。
「勘違いも甚だしいですわね」
「…………」
「そもそも貴方様が存在しなければ」
女主人は込み上げる感情を制することなく、口元を歪ませる。
そしてまた美しい貴族の顔に戻る。だがその目だけは内なる激情の炎を溢れさせていた。
「ああ、罪深い御方。貴方様ひとりのために何人が犠牲になったかおわかりですか?」
嘆きながら細い指で肩を抱き。
「貴方様さえいなければ、この世界はもっと平和だったはずなのに」
身を震わせ涙を流し。
「世界を恐怖で支配し、我が身可愛さで同胞を裏切った、穢れた血。いったいどれだけの魂が、血の終焉を願っていることでしょう」
呪詛を唄う。
「やっぱり貴方様は、灰色の悪魔。争いと害悪をもたらす悪しき存在」
言葉に毒を含ませ。
「貴方様に殺された子たちがかわいそう。同胞の末裔を手にかけた時、どんな気分でしたか? 怒り? それとも喜び? 歪んだ正義感は満たされましたか?」
呪を乗せて、歌う。
その目は間違いなく正気だった。
「ああ、荒野の死告鳥よ。貴方様は民の希望を寄る辺にしていらっしゃるのでしょうけれど、けれども!」
赤い唇が深く笑う。
花の香がふわりと漂う。血の匂いと共に。
「民が望むのは己を庇護してくれる強き王。食べ物を与えてくれる優しい飼い主。いざという死地には身代わりとして犠牲となる慈悲深い生贄ですわ」
濃厚な蜜のように甘い声で問いかける。
「そんな愚かな民相手に心を砕いて、いったいどうなさいますの?」
問われたヴィクトルは表情を崩すことなく。
「あなたは爵位を返上した方がいい」
ただ一言、そう返す。
沈黙。
風の音だけが激しさを増す。
ローゼットの指が、口が、身体がわななく。
噴火寸前の火山のように、身の内側は煮えたぎっている。しかし淑女は、激しさを宿したまま鉄の仮面で感情を隠す。
「侯爵に贈り物を」
使用人に命じると、すぐさま応接室の扉が開いた。
メイドに連れてこられたのは、清潔な白い服を着せられた少年だった。口元は布を噛まされ、言葉を発することはできない。
しかしその少年はノアを見て、目を見開いた。
それは橋で見事な技を見せてくれた獣人の子どもであり。
その少年には右手がなかった。
(――――ッ!)
氷塊で殴られたかのような冷たく重い衝撃が頭を貫く。よぎったのは箱詰めにされた子どもの右手。
「だいじょうぶ。必ず、助ける」
椅子から立ち上がる。
もう躊躇わせるものはない。
「お優しいエレノア様。出来もしない約束は口になさらない方がよろしいですわよ。言葉は呪。行動を縛ってしまいますわ」
「なら何度だって言葉にするわ。必ず助けるって!」
少年を捕まえているメイドの手首が動く。手にしている刃物の煌きを引き裂くように、ノアは腕ごと石で固めた。
部屋の照明を破壊する。
暗闇に目が慣れるまでに、使用人たち七人の首の神経に衝撃を走らせ、昏倒させる。
ずっと後ろにいたクオンが動き、少年を抱きかかえノアたちの元に戻る。一瞬の動きだった。
「……なるほど。フローゼン侯爵が貴女様を選んだ理由がようやくわかりました。魔女だったなんて」
人質を失い、使用人を無力化され、圧倒的に不利な状況になっても、ローゼットは取り乱すことなく暗闇の中からノアを見つめる。
「ローゼット様、私は錬金術師です」
「錬金術師?」
緊張感のない声で繰り返したローゼットの身体が、ぞくり、と震えた。
「錬金術師……エレノア様……ええっ? まさか、本当に……?」
喜色ばむ様子を不可解に思いながらも、攻めの手は乱さない。
「ご存知ならば話が早いです。降参してください」
ローゼットの左手から扇が落ちる。ドレスの上に。
「あら……?」
「壊しました」
左手の神経を。
「まだ治せますし、もっと壊すこともできます」
神経を封じる技術は、自害しがちな暗殺者を止めるために研究したものだ。一時でも動きを止められれば打てる手は増える。
とはいえあまり使いたいものではない。治すために、医療のために身に着けてきた技術を、戦うために、壊すために利用するのは。
そしてこの技は、力の調整に非常に気を遣う。壊しすぎないように、そして牽制になる使える効果を見極めて使わなければならない。
「降参して、それから?」
ローゼットは甲高い声で笑う。面白い冗談を聞いたとばかりに。
爛々と瞳を輝かせる。手のことなどまったく気にも留めていない。牽制にもなっていない。動揺を押し殺し、ローゼットを見据える。
「罪を認めて、裁きを受けてください」
「不思議なことをおっしゃられますのね。わたくしがどんな罪を犯したと?」
少女のような表情で、首を傾げる。
「落ちていたものを拾っただけ。消えて当然のものをけしただけ。わたくしは世界に不要なものを処分しているだけですわ」
ローゼットの信念は曲がらない。
右手で膝上の扇を取り、扇で口元を隠し、いたずらっぽく笑う。
「それにわたくしは貴族。貴族を裁けるのは皇帝陛下だけですわ」
皇帝はこんな些事には関わらないと言いたげだ。
それにしてもこの余裕はなんだろう。
呪い殺そうとした相手が生きてここにいて、錬金術師がいるというのに。
ローゼットの余裕は、崩れそうで崩れない。絶対に勝てるカードを握っているかのように。
「エレノア様。特別に教えて差し上げます。敵は迅速に消さなければなりません。後顧の憂いを断つためには、根絶やしにしなければなりません」
暗闇で瞳が光る。
「でないと、裏切られますわよ?」
火薬のにおいが鼻を突いた瞬間、ローゼットの背後で閃光と爆音が弾ける。
ノアの後ろで誰かが動いた気配があった。しかしそれ以上の動きや攻撃は感じられない。ただ風が鳴いている。鳴き続ける。
閃光で一時役立たずになった視力には頼らず、導力で周囲を視る。ローゼットが座っていたはずの場所に彼女の姿はなく、いつの間にかクオンの姿も消えていた。






