4-18 ある暗殺者の挟持
幻影は瞬く間に消えて。
ノアは背後に立つ気配の方に、振り返ることができなかった。
悪いことはしていないはず。そう言い聞かせて、何事もなかったかのように自分で窓を閉める。
カタン、と音を立て窓が閉まり、最後の風が頬に触れて消えていく。
両手が。
大きな手が、いつの間にか壁との間にノアを閉じ込めていた。
「…………」
いま自分がするべきことは。
患者の顔色を見て。
体調を聞いて。
対応すること。
そのはずなのに身体が動かない。
(動け動け動け)
意を決して振り返ろうとしたその時。
「旦那様、お目覚めになられましたか!」
戻ってきたニールが声を震わせる。
「ああ、心配をかけたな」
振り返り、顔を上げる。
ヴィクトルの顔はニールの方に向けられていて、表情を見ることはできなかった。
ニールから蜂蜜入りのあたたかいミルクを受け取り、椅子に座ってゆっくりとそれを飲む。あたたかくて、甘い。心の緊張がほぐれていく。
だがしかし気まずい。
気まずいながらも、ニールの世話を受けて着替えをしているヴィクトルの様子を盗み見る。
顔色に、身体の動き。どれもいつも通り。もう心配はなさそうだ。
ほっと息をつく。薬の効果が出て良かったと心から思った。
こうなれば、ノア自身の魂をギリギリまで削った影響や不調が表に出ていないかの方が不安になってくる。ノアもほんの少しだけ薬を取り込んだため倒れない程度には回復していたが。
ミルクの表面を見つめる。薄く張った膜。いまの状況はこの膜のようなものだ。
(これ以上は、無理)
これ以上負荷がかかると破れてしまう。
呪詛をかけられると対応できない。これ以上の攻撃には肉体的にも精神的にも耐えられない。そして相手に余力があればきっとここぞとばかりに攻めてくる。
となればすることはひとつ。
「術者のところに行ってくる」
攻撃される前に仕掛ける。自分から呪いの出所に飛び込んで。もうこれしか方法はない。
すでに手掛かりは手に入れた。
――土人形に封じた呪詛。これはまだ分解していないため、術者と繋がりが残っている。この尾を追う価値はある。
ヴィクトルとニールの視線がノアに向けられる。
「わかった、行こうか」
着替えが終わったヴィクトルは散歩でも提案されたような気軽さで言う。
「いや、ヴィクトルは休んでて」
「充分に休んだ。かつてないほど調子がいい」
薬は良く効いたらしい。効きすぎてしまったかもしれないと思うほどに。
こういう時のヴィクトルはいくら駄目だと言っても聞かない。
「ニールはここを守ってくれ。また不届き者が来ないとも限らない」
「わかりました。お気をつけて」
止めるべき立場の人間が止めようとしない。
「マークスの指示はよく聞くように。帝都については彼がいま一番詳しい」
話が進んでいくことにノアが焦りを覚えた時、部屋の扉が開いた。
入ってきたのはクオンだった。
「お待ちください。お二人で行かれるつもりですか」
外で話を聞いていたのか、困惑した表情で室内に入ってくる。ふっと外の匂いがした。いままで外出していたのだろうか。
「私ひとりでも行けると思うから、ヴィクトルを説得して」
「無理です」
「無理です」
(教育が行き届いている……!)
クオンは犬のような耳を伏せ、首を横に振る。
「――そうではなく。お二人の力はよく知っているつもりですが、呪いを使う相手に正面からぶつかる無謀です」
「裏からこそこそやるタイプは正面から殴るに限るわ」
「脳が筋肉でできているんですか」
視線が冷たすぎて、ぐうの音も出ない。
「僕が行きます」
「え?」
戸惑うノアの隣をすり抜けて、クオンはヴィクトルの前に跪く。騎士が王に誓うかのように。
「我が君、ご命令を」
騎士の懇願に王は何も言わず、ただ見つめる。
「敵を屠れと。呪術師を殺せと」
「そんなことをさせるために手元に置いたのではない」
「……ではせめて、供をさせてください」
ヴィクトルは答えず、ノアを見る。
視線で、こちらに判断させる気なのだとわかった。頭が痛い。
「クオンさんは何者なの?」
クオンは短く息を飲み、跪いたままヴィクトルを見上げる。
言いたくないのならばそれで構わないと思ったのだが、クオンは迷っているようにも見えた。彼の決意が固まるまで、少しだけ待つ。
「ご想像どおり、フローゼン侯爵を暗殺するために派遣された者です」
「ええーっ?」
驚きで思わず声が出る。
「……気づいてなかったんですか? まったく?」
「何か事情がある気はしてたけど」
「それは気づいているとは言えません」
呆れ顔で肩を落とす。
ヴィクトルはおもしろそうに口元だけで笑っていた。ニールも困ったように苦笑している。もしかして気づいていなかったのはノアだけなのだろうか。
そして二人の様子を見てなんとなく想像できた。
暗殺者としてやってきたクオンをヴィクトルが返り討ちにして、そのまま使用人として雇ったのだろう、と。
しばらくは暗殺者としての意地を保っていたのだろうが、ことごとく失敗してやがて屈服し、心酔したのだろうと。
懐の深さは王者の器か。
「本当、変わったご夫婦ですよ」
「まだ夫婦じゃないです」
諦めの悪いものを見る目を向けられる。
最初の頃は棘がありつつも柔和だったのに、いまは本当の表情を隠そうともしない。こんな暗殺者もいるのだと不思議な気分になった。
クオンの腕は確かだろう。彼はおそらく独りでも使命を果たす。
ノアは冷静になって考えた。
ここでノアが単独行動を譲らなければ、ヴィクトルはクオンを連れて別行動をするかもしれない。
それは困る。危険に巻き込みたくないだけなのに危険に晒すことになり、万が一のとき助けられないかもしれない。
提案を受けるしか選択肢はない。
だがノアはこの期に及んでも、誰も巻き込みたくはないと考えていた。
「ノア」
名前を呼ぶ声は、蕩けるほどにやさしい。
「あなたの力はよく知っている。強く高潔でどんなことでもできる。だが、一人で抱え込もうとする」
外出用の上着を羽織り、手袋を嵌め。
「私は、あなたの力にはなれないだろうか」
剣を手に取り、訊いてくる。
「そんなこと――」
ノアはそんな立派な人間ではない。弱く臆病で、我が強い。矛盾だらけの人間だ。
それなのにヴィクトルはいつだって力を貸してくれる。
(私は、弱い)
ひとりで何もかも解決することはできない。何度も思い知らされた。それでも絶対に阻止しなくてはならないことがある。
ヴィクトルの死、フローゼン家の人の死、ノア自身が死ぬこと。
これ以上呪詛の犠牲者を出さないこと。直接的にも間接的にも。これが偽らざる本音だった。
そのためには敵の懐へ――危険な場所に踏み込まなければならない。そこへ大切な人を連れていくのは避けたい。それでも。
(私は、弱い)
ヴィクトルの力は知っている。共に来てくれればどれだけ心強いだろうか。クオンの存在もきっと大きな力になってくれる。
ため息をつきそうになり、ぐっと息を飲み込む。
呆れるほどに矛盾だらけだ。守りたいものを巻き込もうとするなんて。それでも。
本来の目的を見失ってはいけない。
震えかけた手を握りしめる。
(弱気になるな、エレノアール)
黒のエレノアールと呼ばれた自分が、呪詛に呑み込まれて弱気になるなんて、ありえない。
相手の思惑通りになるなんて認められない。
守るべきものがあるのなら、使えるものはすべて使う。己が弱いのなら、力に頼るしかない。
願いを叶えるためには何でもする、錬金術師の典型的な心理と傲慢さを素直に受け止める。
閉じた瞼を開き、ヴィクトルの青い瞳を見つめる。
「お願い。力を貸して」
「ああ、もちろんだ」






