4-16 重くて苦い薬
すべては一瞬の出来事だった。
一筋の風のように淀みなく流れ、命を奪う呪詛が結実する。
「ヴィクトル!」
力を失って倒れるヴィクトルを、怪我しないようにその場に寝かせる。ナイフが刺さった部分を刺激しないように。
自分の無力さを嘆いている場合ではない。
風は止んだ。呪詛は成った。時間がない。
最早こちらの呼びかけにすら反応がない。苦痛に耐える表情で荒い息を浅く繰り返し、全身を固く強張らせている。
魂を喰い荒らす呪が暴れている。
それを無理やり押さえつけ、分解する。指先が痺れ、脳が軋む。全身の導力回路が引きちぎれそうだ。身体が悲鳴を上げるが。
こんなことは、たいしたことではない。
死なせない。絶対に。
誰にも渡さない。
この身体も。
命も。
魂も。
(持っていけばいい)
必要ならばノアの分をすべて。
ただしヴィクトルは持っていかせない。誰にも。何処にも。
すべての力を注ぐ。体内を暴れ、魂を喰らおうとする三つ頭の呪詛を、すべて捕らえ、潰す。
絶対に。
絶対に死なせない。
自分がどうなろうとも安いものだ。この命ひとつで贖えるのなら。
牙を立てられ傷ついた魂を治療する。ノアは己の魂を削って奪われた分を補う。
手足が震える。こんなに熱いのに、吹雪の氷原にいるかのように寒い。
しばらくそうして呪素の分解と魂の修復を繰り返しているうちに、呪詛の勢いが少しずつ失われていく。
ヴィクトルの髪に指を滑り込ませ、軽く髪を掬う。汗に濡れている髪の、柔らかい感触。
髪の毛が数本、指に絡む。
腰に下げている亜空間ポーチの中から人形を取り出す。夕方、庭で作った土人形だ。
銀の髪をその中に封じる。身代わりとしての役割を得た土人形に、いまだ周囲を漂う呪詛が吸い込まれるように入っていく。本人と勘違いをして。
ヴィクトルの呼吸の荒々しさが和らぐ。苦痛が少しでも収まったのか。
ノアは大きく息を吐いた。
無理して力を使ったせいか、体内の血管があちこち切れていることがわかる。鼻血も出ている。眼球も充血しているのか、視界が赤い。
だがこんなことは、たいしたことではない。
油断はできない。
ヴィクトルはひどく消耗している。強い呪いを受けた上に、毒が塗られたナイフで刺されたのだ。呪が落ち着いた隙に体内に入った毒を分解する。
ナイフはまだ抜かない。抜けば出血の勢いが増す。
身体に刺さったままのナイフを忌々しく見つめる。
このナイフは、この毒は、いったいどこからやってきたのか。おそらく偽兵士のどちらかがマリーに渡したのだろうか。
そして何らかの方法でマリーを操って――……
マリーの殺意は、ナイフの切っ先は、明確にノアを狙っていた。
悔しい。
止められなかったのが悔しい。
庇わせてしまったのが悔しい。
ナイフの柄を握り、抜く。血が溢れ出すがすぐに出血を止める。
刃に傷つけられた筋肉を、神経を、骨を、皮膚を、治療する。
身体は、もう、だいじょうぶ。
ただ、魂に受けた衝撃が強すぎた。
いくら魂を分け与えても傷つけられた分には足りない。自分の魂を削り与えているだけでは、おそらく足りない。削れる魂には限りがある、
自分が死ぬのは構わない。
だがいまここで倒れるわけにはいかない。
(力が足りない)
だが、諦めることはできない。こんな現実は認められない。
「私は錬金術師なんだから!」
理想を現実のものにするのが錬金術。
ここでヴィクトルが死ぬのが運命だとしても、そんな運命は変えてみせる。
命を使い切ってでも。
――賢者の石の欠片はもうない。
ノアは亜空間ポーチの中から一本の薬瓶を取り出した。その中に入っているのは、『錬金術師の庭』の隠し部屋に残されていた、三百年前の希少生物の欠片――力ある生き物の欠片を使って調合した薬だ。
万能薬には劣るものの、それに近い効果は出ているはず。まだ毒性がないことしか確認していないが。
一度だけ深呼吸し、覚悟を決める。
蓋を開け、中の液体を口に含む。
痺れるほど苦くて、灼けるほどに熱くて、粘性のある液体。調合時、瓶に移したときに器に残ったものを舐めた時よりも苦い気がした。
だいじょうぶ。毒はない。
ノアは腕の力を強化し、ヴィクトルの上半身を抱き起す。
わずかに開いている口に、唇を重ねて、薬を流し込む。嚥下したのを確認して、口を離す。
ヴィクトルの口元を拭い、零れていた分を指に取り、舐める。
――ああ、物凄く苦い。
ヴィクトルの意識がはっきりしていたら、吐き出そうとしたかもしれない。
しかしその力は本物だった。
不死の王となったアレクシスが取り込んだ数々の力ある生き物は、その欠片にも、伝説に相応しい力を持っていた。
命も、魂も、肉体も。
溢れる生命力で修復され、ヴィクトルの状態が落ち着いていく。
呼吸も顔色も。身体の震えも。
ほんの数滴取り込んだだけのノアの身体も修復され、出血も止まる。視界も正常に戻ってきた。
(よかった……)
薬の後味の悪さだけが、いつまでも舌に残っていた。
##
騒ぎに気づいて一番に駆けつけたのはニールだった。
「旦那様!」
「だいじょうぶ、生きてる」
書斎の惨状と意識を失ったヴィクトルの姿に動揺するニールに、強めの声で応える。
「ノア様、いったい何が」
「詳しい話は後で……人を呼んで。ヴィクトルとマリーさんを部屋に運んでもらって」
二人をそれぞれの部屋に運んでもらう間に、ノアは書斎の片づけを依頼し、自室に戻って着替えを行った。襲撃が続く可能性を考慮して、動きやすい服装を選ぶ。
その後はヴィクトルの部屋に行き、深く眠っている彼の様子を見ながら、護衛も兼ねて傍で夜の時間を過ごす。ニールと共に。
呪詛の影響はもうなく、状態は安定していた。薬がよく効いたのだろう。
「ノア様も少しお休みください。このままでは……」
「私はだいじょうぶ」
看病しながらノア自身にも薬を適時投与している。この夜くらいは耐えられるだろう。
「わがままを言ってごめんなさい。傍にいる方が安心できるの」
まだ夜は長い。
眠っている間にもしまた呪詛をかけられたらと思うと、とても眠ることはできない。
「……何があったのか、お聞かせいただいてもよろしいですか」
「うん」
ノアは書斎であったことの一部始終を話す。偽兵士ふたりの件、マリーのこと、呪詛のことまで含めて、事実だけを淡々と。
呪詛への対応や治療については、詳細を話すことは避けて。
それにしても、頭が痛い。
薬を飲んでも痛みが波のようにやってくる。気を抜けば頭が割れそうだ。
「ニールさん、あたたかい飲み物を貰ってもいい?」
「すぐにお持ちします」
ニールが出ていくと、静かな部屋にふたりきりとなる。
ノアは痛み止めを取り出し、飲み込む。これでしばらく頭痛は和らぐはずだ。
頭をさすりながら、眠り続けるヴィクトルの横顔を眺める。
(どうして――……)
カツン、と窓に何かが当たる。
窓辺に近づき、外を覗くと人がいた。
足場のないはずの壁面に、人影があった。
暗い色のマントを羽織った男が、窓ガラス越しにノアを見つめて笑う。人懐っこい笑みで。
その顔には見覚えがあった。
「ファントムさん?」






