4-10 ケルベロスの牙
三つ頭の黒き犬が、ベッドの上からノアを見下ろしている。昏く冷たい、夜の瞳で。
――ケルベロス。
匂いのない不可思議な犬に、古き生き物の名前を付けて。ノアは床の上に転がった無様な格好で睨み返す。怯むことなく。
ケルベロスが跳ねる。
ベッドの上から飛び掛かってくるそれを、ノアは転がって横に避けた。再び躱すことができたのは、行動を注意深く観察できていたことと、部屋の広さがあってこそだ。
転がった勢いのまま、床を蹴るようにして立ち上がり、扉の方に走る。距離を取るために。
犬との追いかけっこなんて、悪い夢だ。このままではほどなくその鋭い牙と爪で捕らえられ、シーツのように引き裂かれるだろう。
とにかく相手の動きを縛らないとならない。犬と格闘すれば確実に負ける。
振り返り、四肢と首元を石で覆って拘束するため、導力を巡らせる。
(ん?)
捕まえようとして、あまりの手応えのなさに驚く。霧を掻いたように、込めた力がすり抜ける。
ノアは即座に方針を変えた。このケルベロスは、床に縫い留めるのも、関節を固めるのも無理だ。
構造を見る。
その魂も。
身体を構築する物質も。それらが組み上がる造りもすべて。
しかし。
それはまるで幻のように儚く、夜霧のようにつかみどころがない。即ち、実体がない。
(幻?――違う)
幻はシーツを引き裂いたりしない。
ベッドを踏み荒らしたりしない。
(考えろ)
これは幻でも霧でもない。少なくとも牙と爪は。
(これは、呪素)
魂を喰らうもの。
死体に集い、魂を喰らおうとするもの。
通常はとても弱いもので、生きている人間や動物に集まってくることは有り得ないもの。
しかしそれがいま、ケルベロスの身体を構成し、ノアを襲っている。牙と爪を実体化させて、傷をつけようとしてくる
あの武器で傷をつけられれば肌は容易く破られるだろう。
肉も裂かれ、骨も危うい。
その中にケルベロスの呪素が入り込めば、死に至る。
(なんて古風な)
いっそ感心した。
これは呪いだ。古くからある呪詛が、現代に蘇って現実化している。
呪われれば、魂を殺される。魂が死ねば肉体も衰弱して死ぬ。
――理解できればそれだけのことだ。
(私に来たのが運の尽き)
ノアが王国の国家錬金術師だった時につけられた二つ名は、黒。黒のエレノアール。
その名は、呪素を操れることに由来する。
意識を研ぎ澄ませる。
闇よりも濃い黒を。
夜よりも昏い黒を。
世界に満ちる死の要素を。
走りながら集めて、部屋の壁に背中を付く。
向かい合ったノアの前には、飛び掛かってきたケルベロスの頭が迫っていた。
軽く手を振り、その身体を払う。
ケルベロスの身体は、強大な力に蹂躙されたかのように、宙を浮き壁に叩きつけられた。
――呪素で構成されたものが、黒の錬金術師に抗えるはずがない。
一瞬、ケルベロスの身体を構成するものが崩れかける。まるで砂絵が崩れるかのように。だが、すぐに元に戻り、形を取り戻す。これぐらいで崩壊するほど脆くはないようだ。
ならば、と。
呪素を集め、固め、ケルベロスの四肢の先を捕らえる。
呪素に干渉するのに呪素を使えばいい。それだけのことだ。
床に身体を縫い留められたケルベロスは、拘束を逃れようと身体を暴れさせる。
しかしそれぐらいでは身体に穿たれた楔は外れない。
唸り、もがき、抗おうとも、その場で揺れるだけで自由は完全に奪われている。
(……さて)
状況が硬直してようやく一息ついた。
ケルベロスの拘束がほどけないようにだけ注意しながら、壁に体重を預け、心臓を落ち着かせる。間違っても誰かが入ってこないように、錬金術で部屋の鍵をかけて。
呪詛の狙いはノアだ。
ケルベロスがもし逃げ出したとしても、他の人間を襲うようなことはないだろうが。
誰かが割り込んでくれば巻き込まれる恐れがある。
問題は、これがどこからの呪詛か、誰の仕業か、何を狙っているかだ。
ノア自身には呪われるような覚えはないが、どこかで恨みを買っている可能性は充分にある。
ヴィクトル・フローゼンの婚約者を呪い殺したい女性がどこかにいるかもしれない。
ヴィクトルへの嫌がらせをこちらに向けてきているのかもしれない。
(どっちもありえる。私を狙ってきてくれたのは、正直助かるけど)
この家の他の人間が狙われていたら、間に合わなかったかもしれない。そう思うと、壁に密着した背筋に冷たいものが走る。
大きくため息をついて、心を落ち着かせる。
それにしても呪詛とは古風なことだ。この時代にいまだに術が残っていることには感心する。
(とりあえず分解しよう)
構成を解き、分けて、ただの呪素にして世界に戻す。できるだけ迅速に無害な状態にしないと。
ケルベロスは声なき声で唸り続ける。眼は爛々と輝いており、まだまだ諦めている様子はない。
そしてノアは、想像もしていなかった光景を見る。
三つの頭の内、右側の頭が身体から千切れ、頭だけで飛んでくる瞬間を。恐るべき怨念と執念を。
頭の位置と存在を捉え、横に凪ぐ。頭を構成する呪素を分解しながら。
本体から離れたそれは小さくなった代わりに強度が高まっていたが、関係ない。空中で捕らえ、呪素で包み、潰す。乾いた土塊を握り壊すように。
頭が一つ、消える。
残りも早く分解しないと。
「ノア! 無事か!」
ヴィクトルの声と共に、外から扉を開けようとする音が室内に響く。
(なんで?)
ノアは目を見開いた。息が詰まる。
声は上げていない。ベッドから落ちたりはしたが、大きな音も出していないはず。どうやって察知したのか――それはどうでもいい。とにかく。
「開けないで!」
呪いが方向性を変える恐れがある。
どうにか室外で押しとどめないと。
鍵はかけているとはいえまったく安心できない状況に、緊張が走った刹那――
爆発したかのような音と共に、扉がひしゃげた。
無力な扉が勢いよく倒れていくのを、横の壁際からただ見ていた。
――ああ、確かに。壊さないでとは言っていない。
扉を踏み越え、息をわずかに乱して、ヴィクトルが踏み込んでくる。
左手に剣を携えて。不穏な空気を感じ取って、剣を手に駆け付けたのだろう。
そして、部屋にいる部屋にいる三つ頭の犬――いまは双頭のケルベロスの姿を見て目を見張る。しかし動揺は一瞬で抑制され、剣を抜く流れに入る。
「待っ――」
止める暇もない。
目に見えない速さで抜かれた剣は、ケルベロスの身体を中心から真っ二つに切り裂いた。
理屈的には。斬れるはずがない。
逆に呪詛を受ける可能性もある。
なのに。
斬れないはずの身体が左右に分かたれ、開いていく。
もちろん実体ではないので血は出ない。匂いもない。
霧が風で掻き消されるように。悪い夢から覚めるように。
それこそが悪い夢のようだった。
(呪詛を斬る、なんて。なんなの、この人)
一流の使い手は斬れないものも斬れるのか。
気を失いたくなって眠ってしまいたくなったが何とか踏み留まる。
ヴィクトルの傍により、腕に手を添え、軽く引く。
「後は任せて」
青い瞳を見上げ、崩れかけた呪詛を見据える。心は嘘のように落ち着いていた。
弱り切ったケルベロスの分解は、驚くほどにあっさりとしていた。糸のほつれた布を解いていくように。
人を呪わんとする悪意を、世界を構成する要素のひとつに還す。
二度と形を取り戻さないように。






