4-8 侯爵の婚約者
しばらくは紅茶の話やドレスの話、領地の話、学生時代の話に花が咲く。そして話題は徐々に、貴族の結婚や婚約の話に移っていった。
花の香りの紅茶を飲みながら、頷きながら話を聞く。話に出てくる人々のことはわからないが、帝国社交界の新鮮な話を聞けるのは興味深い。
(恋愛結婚が増えているのね)
話を聞きながら思う。
三百年前の王国では貴族の結婚は家同士のもので、つり合いと正統性が最重要だったが、いまは当人たちの気持ちが尊重されているように思われる。学生の内に出逢い、交流を深め、結ばれたという話をいくつか聞いた。
もっともそういう風潮でなければ、自分たちのような、侯爵と士爵養女の婚約などただの夢物語だっただろうが。
「エレノア様から見たフローゼン侯爵は、どのような御方なのですか?」
恋愛話の延長で、ゾフィアに声を掛けられる。ノアは微笑んで答えた。
「とてもお優しい方です」
「まあ、氷の侯爵様も、愛しい方の前では溶かされてしまうのね!」
当たり障りのないところを言ったつもりだが、何故か妙に盛り上がる。
ノアにはその盛り上がりよりも、聞こえた二つ名の方が気になった。
(灰色の悪魔とか、氷の侯爵とか)
近寄りがたい二つ名ばかりだ。
もしかしたら、他人にはそう見えるように、血も心も通っていないかのように、本人が振舞っているのかもしれないが。
「それにしても、とても勇気があられますのね」
ローゼットが悩ましげな溜息をつく。
「勇気ですか?」
「ええ。フローゼン侯爵は素敵な方ですが、赤い空の地に行くのはわたくしには怖くて無理ですわ」
「赤くなかったわよ」
木苺の真っ赤なジャムを塗ったクッキーを食べながら、レジーナが言う。
「ついこの間行ってみたけれど、ここと同じ青色だったわ」
「まあ。では、あの土地に行くと呪われて、獣の耳が生えてしまうという噂も嘘なのですね」
ローゼットは口元を扇で覆い、レジーナの頭を見つめる。獣の耳がないかを確認するかのように。
不穏な感情が胸によぎる。
(……ローゼット様は、獣人に友好的ではないの?)
獣人は旧王国民の子孫。旧王都を内包するフローゼン侯爵領には多くの獣人が生活している。
純粋な帝国民、ましてや貴族が獣人を忌避するのは、理解できないことではない。
しかしローゼットは獣人を保護する孤児院を運営しているというのに、ありえない噂を躊躇なく口にする。
(本意ではないということ?)
慈善が偽善であろうと問題はない。行動の価値に変わりはない。だが――……
「あらあら。まさかローゼットがそんな噂を信じているなんて」
ゾフィアが強張った空気を壊すようにくすくすと笑う。
「だって怖いのですもの」
「慈善家ですのに?」
ローゼットはゆっくりと首を横に振る。
「それとこれとは話が別ですわ、ゾフィアさん。孤児に施すのは憐れで可哀想だからです。それがたとえ獣人の子どもであろうと変わりません」
微笑む姿は慈愛に満ちていた。
「ですがやはりあの土地は特別なのです。特別、わたくしにとっては恐ろしく、憧れの場所なのです」
凛とした瞳も、すらりと伸びた背筋もまっすぐで。
「憧れ、ですか?」
思わず言葉が零れる。
ローゼットは悠然と笑った。
「赤き空の地、呪われた地、古き王国の地。恐ろしい、けれどそれ以上に惹かれる、神秘の地ですわ」
「辺境だからこそでしょうかね。でももし、フローゼン侯爵があの地と無関係だったとしても、わたくしには手に負えそうにないですね」
ゾフィアが言いながらティーカップを置く。
レジーナが力強く頷いた。
「そうね。あたしたちが伴侶に求めるのは顔でも武力でもなく――」
「質実剛健」
「無欲」
「出しゃばらないこと!」
(…………)
女当主の気苦労が慮れた。
「あーあ、どこかにいい男いないかしら。あたしの男運のなさ、壊滅的なんだけど」
「レジーナ様ならわたくしたちより出会いが多いのでは?」
「そうねー、何も知らない新人を捕獲するしかないわね」
「いっそ皇太子妃を目指されるのは?」
「まだ八歳じゃない。十年後を考えると怖すぎる。それに公爵家のご令嬢で決まりでしょ。従兄妹で年齢もちょうどいいし」
恋愛話で盛り上がっているところに、年配の男性使用人がレジーナの元へやってくる。
使用人はレジーナに耳打ちで何かを告げると、レジーナは苦虫を噛んだような表情になった。
頭を抱え、ため息をつく。
「まったくもう……こちらにお通しして」
使用人に指示を出し終えるともう一度ため息をつく。
何かトラブルだろうか。訝しむノアを緑の瞳で見て、肩を竦める。含みのある笑顔で。
「愛が重すぎるのも、あたしには無理だわ」
先ほどの使用人に案内されて、長身の男性が応接室に入ってくる。
ノアは思わずティーカップを落としそうになった。
ローゼットとゾフィアは来訪者に息を飲み、瞳を輝かせた。
「心配されなくても責任を持ってきちんとお送りしましたよ」
「申し訳ない。一秒でも早く彼女に会いたくてな」
やわらかい声と表情は、とてもではないが灰色の悪魔にも、氷の侯爵にも見えない。
「もし時間がありましたら、ぜひお茶をしていかれませんか」
「ありがたい申し出だが、今回は遠慮させていただこう。また、次の機会に」
銀色の髪が雪のように輝いて。
青い瞳が春の空のようなあたたかさを湛えて。
ノアを見て、手を差し伸べる。
「エレノア」
――どうして。
どうしてこの声で呼ばれるときだけ、こんなにも胸の奥に響くのだろう。
何故とかどうしてとか何かあったのかとか、浮かんだ疑問をすべて忘れて、ノアは椅子から立ち上がった。
ローゼットとゾフィア、そしてレジーナにそれぞれ深く頭を下げる。
「皆様、本日はとても素晴らしい時間をありがとうございました」
その日の夜には「ヴィクトル・フローゼン侯爵は、婚約者を片時も離さないほど溺愛している」という噂が貴族中に広まっていたことを、ノアが知ることはなかった。