4-5 先代の書斎
レジーナに送られて侯爵邸に帰ってきたときには夕方になっていたが、まだヴィクトルは帰ってきていなかった。
ヴィクトルとニールが戻ってきたのは夕食も終わり、夜も更け、そろそろ就寝しようかという頃だった。
帰ってきた気配を感じて、夜着の上にストールを羽織って玄関ホールに下りる。しかしふたりの姿は既になく、偶然出会ったマークスに尋ねるとヴィクトルは書斎に行ったという。
書斎の場所を聞いて、そちらに向かう。慣れない、暗い廊下を歩き、光が零れている扉を見つけて、扉を軽くノックする。
「ああ」
いつもと同じ、短い返事。
扉を押し開け、中に入る。ヴィクトルは奥の椅子に座って、何かの書類に目を通していた。
紙とインクの香りが、しんとした夜の匂いに混じる。
アリオスの書斎と似ていて、どこか違う匂い。
壁には作り付けの本棚、奥には立派な机。内装の雰囲気も似ている。けれど。
「なんだか、アリオスの書斎とは少し雰囲気が違うのね」
本棚の背表紙を眺めながら、奥に歩いていく。どの本も大切に扱われてきたらしく、時間経過による変化はあれども埃ひとつない。
「ああ、父が使っていた時のままだからな」
書類を置き、机上の封筒を手に取り、ナイフで封を切る。紙を裂く音が短く響いた。
一日中出かけていて、帰ってきてからも寝ずに仕事。話したいことはたくさんあったが、いま自分の話をするのはどうなのだろうと思い直す。
邪魔をするのは悪い。必要なことだけ伝えて早々に去ろうと決めた。
「明日、レジーナさんにお茶会に招待されたの。行ってきてもいい?」
「ああ、楽しんでくるといい」
「ありがとう。それじゃあ――」
おやすみなさい、と言おうとして。
「今日はどうだった」
被せるように問いかけられ、部屋を出るタイミングを逃す。
甘やかすようなやさしい声は、何でも話してしまいたくなるような響きを帯びていた。
「えっと、広場と橋を案内してもらって、スリに遭ったわ」
言ってから、何を話しているのかと自分を叱責した。
「あ、お財布はクオンさんがちゃんと取り返してくれたんだけど」
そこで話を終わらせようと思ったが、言葉を促す視線が向けられる。
「……スリをしてきたのは獣人の子どもで、孤児みたいで、外で生活しているみたいだった。レジーナさんが孤児院を勧めたんだけど、その子は、獣人は孤児院に入ると殺されるとか言ってて――」
話すことが纏まっていないから、聞き苦しい話し方になってしまう。会話術の訓練の成果はどこへ行ってしまったのだろう。
「なんとかできたらって思ったんだけど、全然何も思いつかなくて。結局、お金を渡すことしかできなかった。なんの解決にもならないってわかってたのに」
大人は帝都で働くことも、アリオスに行くこともできる。他の場所にも行こうと思えば行ける。
けれど子どもはそうはいかない。
行き場のない子どもを、なんとか手助けができたらと思う。だがいまのノアに何ができるだろうか。
「獣人を保護している孤児院に話を付けて、希望した者をアリオスに連れて帰ることはできるが」
「できるの?」
「ああ。幾ばくかの謝礼を支払えば、協力してもらえるだろう。孤児院の経営は基本的に苦しい」
それはそうだろう。収入の当てが寄付金や善意しかないだろうから。
「だが、その噂は気になるな」
――獣人は孤児院に入ると殺される。
物騒すぎる噂だ。しかもあの少年は、噂ではなく、自らの体験としてその言葉を口にした。
「仲間の子が身なりのいい男に連れていかれて、どこにもいなくなったって言っていた。嘘をついているようには見えなかった」
真相を調べたい。
湧き上がる心が指先を震わせる。ノアはそれに気づいて、ぎゅっと腕に指先を押し当て、深く呼吸をして震えを止める。
偽の婚約者役の依頼を受けて、淑女教育を受けて、貴族の養女になって。
そこまでして帝都に来たのは、ヴィクトルを守るため。そして帝国の錬金術師について調べるためだ。
一時の感情で本来の目的を見失うべきではない。
「あなたは思うままに行動すればいい」
ノアの心を読んだような言葉。
ヴィクトルの顔を見ると、いつもと変わらない、揺るぎのない笑みを口元に浮かべていた。
「後のことは私に任せておけばいい」
「ヴィクトルは私に甘い」
「ああ、そうだな」
「……ありがとう」
嬉しくなって、笑みが零れる。そして決意する。必ず真相を突き止めようと。
「あ、あとこれ。公爵家のドミトリ様に渡されたの」
机に近づき、ヴィクトルに手を伸ばす。見せるためにずっと握りしめていた、獅子の紋章入りの指輪を渡す。
「ドミトリだと?」
ヴィクトルは引きつった表情で指輪を受け取り、ノアの顔と指輪を交互に見た。
「……いったい何をしたんだ」
「何もしていません」
事故が起こっていたり、行き倒れていたり、暗殺者に殺されかけていたりしていれば、当然救助したが。相手が誰であろうと、それがノアの習性だ。しかし今回は本当に何もなかった。
「宮殿前の広場で、いきなり馬車から降りてきて渡していったの。いちおう調べてみたけれど、ただの白金だったわ」
何かの細工があるかもしれないと構造を見てみたが、どこから見てもただの白金でできた指輪でしかなかった。
「渡された意味も正直よくわからないから、困っているの」
ヴィクトルは座ったまま、静かに指輪を見つめている。
何を考えているのかその表情からは読めない。ただ、喜んでいないことはわかる。
「ヴィクトル?……私、何か失敗した?」
「――いや」
首を横に振り、指輪をノアに返してくる。
「持っているといい。私の力が及ばない場所で、あなたを守る力になるだろう」
「でも、何かの罠とかかも」
「あれは罠を張れるような男ではない」
人となりをよく知っているような言い方だ。
「仲が良いのね」
「あれが聞いたら憤死しそうな言葉だな」
溜息混じりに言う。
いったいどのような関係なのだろう。ノアがレジーナから聞いた話では大学の同期で、事あるごとにドミトリから勝負を持ちかけられていたようだが。
(ボーンファイド公爵家……)
ノアの認識ではヴィクトルの政敵だったのだが。それこそ武力衝突も辞さないような。
だが、嫡男であるドミトリのことは危険視していないように見える。
(不思議な関係)
それでも相手は公爵家。皇帝の一族に次ぐ権力の持ち主だ。
運命が、未来が、どんなふうに転がって、どんな結末が訪れるのかはわからない。
どんな未来が訪れようとも、心は決まっていた。
最後までヴィクトルの味方でいると。






