1-7 錬金術の獣
キメラ。
溶けた鉄を煉って、固めて、肉を付ければ、こんな生き物ができるかもしれない。
飛竜の翼。鳥の頭。獅子の胴体。蛇の尾。
悪夢のような適当さと計算でつくられた生命は、いったいどうすれば赤い空から落ちるだろうか。
侯爵邸の中庭の石像の影に隠れて考える。
翼の根元を石で固めれば落ちるだろうか。
試してみたいが遠すぎる。ノアの錬金術の届く範囲は案外狭い。訓練次第で伸ばせるらしいが、ノアの専攻は戦闘ではなく人体修復だ。きっとこれからもそんな訓練はしない。
ドスッ。
鉄の矢が足のすぐ横に刺さる。
悲鳴が喉に張り付く。声も出ない。
しかも一本ではなかった。
警備の兵士の放った弓矢が、キメラに当たらずに流れ矢となって、風を切り唸り声を上げて中庭のあちこちに降り注いでくる。
下手に動けば刺さる。しかもこの威力、かんたんに身体を貫く。
ノアは身を小さくして頭を抱える。
怖い。
命をあっけなく奪うものが次々と近くに突き刺さる。
「撃つな! 同士討ちになる!」
響き渡る鮮烈な命令。
それは辺り一帯に雷撃のように伝わり、次の瞬間には新たに矢が射られることはなくなり、雨のように降り注いでいた矢も終焉した。
「無事か」
手に槍を携えたヴィクトルが、ノアの元へと走ってやってくる。
どこから持ってきた槍かと思ったが、屋敷のあちこちに槍や剣などの武器が飾られていたことを思い出す。
それにしても絵になると、状況も忘れて見とれてしまった。
この石像よりも英雄らしい。
「はい。いまのところは」
差し伸べられた手を握り、立ち上がる。
ヴィクトルはノアの無事を確認すると、空を飛び回るキメラを見上げた。
「いまになって街へやってくるとはな」
「えっと……あのキメラは――いえ、あの錬金獣とやらはいったい?」
「あれは大昔から廃城の周りを稀に飛んでいるものだ。家畜を襲うことはあるが、街にくることはなかったのだが」
「城の……」
大昔から。ということは最近つくられたという可能性は潰される。
「あなたこそ何か心当たりはないのか」
「知識としてはありますが、キメラを実際に見るのは初めてです」
「キメラか。錬金術師はそう呼ぶのか」
ヴィクトルはキメラを見上げて呟く。
「……エレノアールという言葉には?」
含みを持たせて聞いてくる。
「こっちが知りたいです」
何となく気づいているのかもしれない、この男。
やはり油断ならない。
そして今後一生エレノアールの名前を名乗ることはしないと心に誓う。
「旦那様! ノア様!」
盾と大振りの鎚の武器――メイスを持ったニールが中庭へやってくる。
歴戦の戦士のような勇ましい姿が心強い。
戦力は内にも外にも揃ってきた。だが、相手が空にいること。動き回っていて軌道が定まらないこと。味方の位置がバラバラなこと。市街地なこと。
どう考えても分が悪い。
飛び道具は当てにくく、落下地点が悪ければ味方や一般人に被害が出る。
いまはキメラそのものによる被害は出ていないようだ。追い払えれば一番いいのだが。
「えれ、のあぁある!」
叫び声に狂乱が混ざり始める。ガラスを思いっきり引っ搔いたような不快な、耳に痛い響き。このまま興奮状態になっていけば、何が起こるかわからない。
これ以上錬金術の名前が憎悪の対象になるのは我慢ならない。
(もし、私が狙われているのなら)
囮にすれば、引き付けることもできるはず。
相手の狙いを一点に定めさせられることができれば、対処もしやすい。
「ヴィクトル様、ニールさん。こちらに引き付けてみますから、下がっていてください」
「よせ、危険だ」
「私は錬金術師ですから」
にこりと笑ってみせる。
隠れていた石像の影から飛び出し、空の下に身を現した。
ここからならあのキメラにも見えるはず。あとは気づいてもらうだけ。
できるだけキメラに近い位置で空気を圧縮した球をつくり、狙いを定めて一直線に打ち出す。
パンッ、と弾ける音がキメラの頭の横で響く。
キメラは驚いたように翼をバタつかせ、その場に留まり辺りをくるくると見回し、ついにノアを見つけた。
「え、れ、のあぁぁる!」
いままででとびっきりの歓迎と怒りの声だった。
狙いを一点に定めて、風を切り、ごうごうと音を立てながら滑空してくる。
ノアの口元に強張った笑みが浮かんでくる。
怖い。けれどあとには引けない。
地面に両手を付き、石の成分を全力で引っ張りあげる。
視界から、キメラが消える。
キメラとノアの間に現れた巨大な石壁によって。
激しい衝突音と地響き。
石壁の後ろにいたノアを、誰かが抱えて横に飛ぶ。ヴィクトルだった。
離れたところで、石壁の根元がポキリと折れて倒れてくる。
あのままそこにいれば押し潰されていた、
重い音と共に舞い上がる砂埃を見ながら、ノアは息を飲む。
キメラはというと巨体を地面に寝そべらさせ、翼を力なく動かしている。
脳震盪を起こしているらしき頭に、ニールのメイスが振り下ろされた。
脳天を衝撃で貫かれ、濁った悲鳴を上げる。
しかしさすが頑丈なもので、キメラは失神することなく起き上がり、ふらふらとした足取りで後ろへ下がる。
頭蓋に鉄でも仕込んでいるのだろうか。
ヴィクトルがノアの身体を後ろに押して逃がす。
その肉体が大きくしなり、息が止まり、手にしていた槍が鋭く撃ち出された。
まるで砲撃だ。
攻城兵器の如く放たれた槍はキメラの翼を貫き、そのまま貫通して壁に突き刺さる。穂先が石壁に水平に刺さるのを見て、ノアは息を詰まらせた。
(なにその投擲力)
しなやかで素晴らしい筋肉を持っていると思っていたが、まさかここまでの威力を発揮するなんて。
怖い。
三百年後の人間怖い。
(――と、いまだ!)
このチャンスを逃す手はない。勇気をふり絞り、キメラに向けて走り出す。
走りながら腰のポーチの中の亜空間から、一本の投げナイフを取り出す。細く黒く、濡れたような質感のナイフ。
黒のエレノアールの二つ名は、この黒から生まれた。
この黒は、呪素の黒。呪素を自在に扱える人間は多くない。ノアは自分以外に知らない。
この刃は、魂を直接傷つけるための刃。
羽のように軽いそれを、至近距離まで近づいてから胴体に向かって投げつけた。
ナイフは吸い込まれるように、傷ついた翼へ突き刺さる。
悲痛な叫び声。
呪素に魂を喰われる痛みと苦しみが、憐れみを覚えるほどの叫びとなる。
キメラは苦しそうに蠢く。
さすがに可哀そうに思えたが、これで脅威はなくなる。そう、安心しかけた時。
キメラは呪素に喰われる自らの翼を、その鋭い爪で引っかけてもぎ落とした。
「なっ?」
驚いたのは行動だけではない。その後のキメラの身体の変化。キメラの身体の中心が赤く光ったかと思うと、次の瞬間には、翼が何事もなかったかのように再生していく。
「えれの……ああある……」
地獄の底から響くような声。
猛禽類の金色の瞳でノアを見据え、ゆっくりと翼を動かし始める。巨体が垂直に、力強く浮かび上がっていく。
赤い空を飛び、遠くへ消えていく。
逃げていくその先は、王都のあった方角だった。