4-2 帝都の侯爵邸
かつて、いくつもの国家を飲み込み、王国を打ち破り、大陸を統一した帝国。
その広大でどこまでも続くかのような灰色の首都の中央には、天を差す五つの巨大な尖塔が守護神のように鎮座する。皇帝の住む大皇宮のものだ。
塔の大きさと威圧感からも、大皇宮の存在と、その巨大さが遠くからでも見て取れる。大陸の覇者に相応しい宮殿だと。
帝都のフローゼン侯爵邸に到着したのは、出発から二十二日後。
予定よりは少々遅れてしまったが、道中で盗賊や魔獣に襲われることもなく、行程は順調そのものだった。三百年前と治安は比べようもない。
ヴィクトルの手を取って馬車から降りて、やっと一息つく。帝都の風はアリオスのものより少し冷たく、乾いていた。
冬から春への季節の変わり目を追いかけるような旅だった。
大変ではあったが、楽しくもあったことには間違いない。こんなに遠い旅路も、こんなに長い旅も初めてだった。
屋敷の前では、羊のような角を生やした、落ち着いた雰囲気の初老の男性――執事のマークスと、少し控えめな角の美しい女性――メイドのマリーが出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、旦那様。長旅でお疲れでしょう。ごゆっくりお休みください」
護衛の兵たちが荷降ろしをしている間に部屋に通される。
女主人の部屋は隅々まで手入れが行き届いていた。
「エレノア様のお世話をさせていただくマリーです。なんなりとお申し付けください」
淡いピンクブロンドの髪に、整った清楚な顔立ち。柔らかい物腰、やさしげな声。高位貴族の屋敷のメイドにふさわしい佇まい。
「ありがとう。よろしくお願いします」
その日は長旅の疲れもあってすぐに寝てしまった。
翌日、久しぶりのニールの朝食を堪能した後、ノアは屋敷の敷地内を歩いていた。
ヴィクトルは今日は午後から皇帝陛下に到着の挨拶をしに謁見に行くらしい。
その後も皇宮や帝都の各場所で会談を行うそうで、今日一日予定が詰まっている。今日だけではなく明日以降も。ほぼずっと。
目の回るようなスケジュールだが、どれも婚約者を伴うような場ではないので、ノアは自由にしていていいと言われている。単独行動は固く禁じられたが。
(護衛の意味とは)
ヴィクトルを守るために婚約者役を引き受けて、淑女教育も受けて、はるばる帝都まで来たというのに。
とはいえ無理やりついていくわけにもいかない。婚約者が政治の場でもどこでもついてくるというのも醜聞だ。
仕方ないので今日は屋敷の探検をすることにした。そして、新しい場所に来たときの習慣、建物の強化を行うことにする。
外壁から強化しようと外に出て、屋敷の周りを歩きながら、ふと足を止める。
ここは帝都だ。
屋敷に強化術を施したら、目にした錬金術師に、ここに錬金術師がいるとわかってしまうのではないか。
アリオスの方では錬金術師だの聖女だの女神だのいろんな噂で目立ってしまっているが、ここではもう少し身を潜めておこうか。
「……いまさらかも」
アリオスに密偵がいたらとっくにバレているだろう。そしてもちろん、いないわけがない。
(そもそもファントムさんから私のことは伝わっているだろうし)
顔を上げる。
改めて見ても、歴史のある立派な屋敷だ。庭も外観も内装も、丁寧に手入れされている。侯爵の屋敷に相応しい姿に。
ヴィクトルは人生の大半をここで過ごした。壊したくはない。
壁に手を触れる。構造を視て、強化を施す。傷んでいる場所には修復を施し、表面に温度変化や衝撃への耐性を高める膜を張る。
慣れた作業なのですぐに終わる。
壁から手を放し、再びぶらぶらと屋敷の周りを歩く。できる限り屋敷の状況を把握しておきたい。
(そういえば、お義父様の家も近くにあったんだっけ)
リカルド元将軍の家も近くにあったことを、旅の途中に聞いた。家が近くということもあり、子どものころからよく遊んでもらっていたらしい。
いまは引き払ってしまって故郷の村に建てた小さな家で暮らしているらしいが。
その元将軍は、アリオスに留まったままだ。
大規模な爆発と火災のあったアリオスの復興と、兵の鍛錬に尽力している。出発前にはアリオスもほとんど元通り、いや前よりも発展した姿になっていたことを思い出す。
「おふたりは政略結婚なのよね?」
ぼんやりと歩いていると、屋敷の中から話し声が聞こえてくる。どうやらキッチンの裏手に来たらしい。
聞き耳を立てるなんてはしたない。
すぐに立ち去ろうとしたのだが、何故か足が止まってしまった。
「将軍の養女になられたと聞いているけれど、元はどこのお嬢様なの」
マリーの声に間違いない。
ノアの聞いたものより声の調子がかなり厳しいが。ノアの――侯爵の婚約者のことを言っているのだろう。
マークスとマリーは祖父と孫娘の関係で、長年この家に仕えて、主人が留守の間も家を守ってきたらしい。古くからの家臣としては当主の結婚話は無関心ではいられないものだろう。なにせ家の未来が決まる。
「エレノア様は元々は旅の御方だったんですが、旦那様が熱心に口説かれて、めでたく婚約の運びとなりました」
答えているのはニールの声だ。
「旅人? 身元は?」
「身寄りはないそうです」
少しの沈黙。
「……怪しすぎる」
(ですよね)
思わず頷く。
「貴族のお嬢様とならともかく、身元も知れない旅人なんて怪しすぎる。旦那様もニールも騙されて――」
「マリー!」
温厚なニールには珍しい怒気を帯びた声に、ノアの身体も竦む。
「言っていいことと悪いことがある。妄言は旦那様が最も嫌うものだ」
沈黙が訪れ、会話が途切れる。ノアは逃げるようにしてその場を後にした。
できるだけ気配を消して歩きながら、思った。
マリーの言うことはもっともだと。
(普通に考えて怪しいわよね)
ノアの事情を正確に知っているのは、ヴィクトルとニールくらいだ。
そして正直に話したところで、誰が信じてくれるのだろうか。三百年前から来た錬金術師だと。かつては貴族だったと。王太子の婚約者だった時期もあったと。
(完全に頭のおかしい人だわ)
この時代に一年近くいれば、この時代にも馴染んでくる。
その感覚が言っている。自分から本当のことを言ってはいけないと。
(マリーさんのことは私に原因があるわよね。覚悟ができてないから)
毅然とした態度を示せていないから、侯爵には相応しくないと判断された。わかりきっていたことだが、はっきり言われるとぐさりと来る。
(それにしても)
食事の時も着替えの時も、アニラとマリーのふたりに世話をしてもらったが、マリーはそんな態度はまったく表に出していなかった。マリーはプロのメイドだ。
他人に聞こえるところで愚痴を吐き出してしまうのは迂闊だと思うが。
(……何を言われても平気なつもりでいたけど)
想定していたのは社交界の中だけでのことだ。まさか本拠地がアウェーになるとは思わなかった。
(まあ、仕方ない)
思いのほかダメージが大きいが仕方ない。
足を止め、心の整理をつけて、空を仰ぐ。深く息を吐き、気持ちを整える。
(だいじょうぶ。どうってことない)
こんなことは慣れている。陰からの声なんて気にすることはない。
部屋に戻ろうと思い、表の玄関の方に回ったとき、外からの来客が堂々とした足取りで入ってくるのが見えた。
乾いた風に、赤い髪が大輪の花のように広がった。
高貴な男性が纏うような装いを、凛々しい女性が着こなしている。女性はノアに向けて手を振ると、人懐っこい笑顔を振りまいた。
「やっほー、お久しぶりー」
「レジーナさん!」
以前捜査のためにアリオスに来ていた、帝国警察の女性――レジーナ・グラファイトその人だった。今日は警察の制服ではなく、濃い赤を基調にした、スマートで動きやすそうな格好をしていた。
「帝都へようこそ! すっごーーく遠かったでしょ。約束の帝都案内に来たわよ!」