4-1 「告白」その後
「あなたが好きだ。愛している」
情熱の宿った瞳でそう告げられた瞬間、心臓がいままでにない強さで鼓動を全身に響かせる。
どうしてこんなことになったのだろう。混乱する思考が、いまはまったく必要のないことを考える。
目の前にいるのはかつて自分を捨てた婚約者の子孫――ヴィクトル・フローゼン。
銀色の髪、青い瞳の青年のことは、嫌いではない。むしろ好意を持っている。自分が再びこんな感情を持つことになるとは思わなかった種類の好意を。
だが、彼の愛を受け入れるかとなると話は別だ。
思考も身体もうまく動かない。情けないがいますぐ逃げたい。背中に回った手が、ノアの手を握る力が、逃げることを許してはくれない。
どうしてこんなことになったのだろう。広間で、ふたりきりで、ワルツの練習をしていたはずなのに。
「あ……あなたのことは好き……だと思う」
やっと口に出せた言葉は、震えていた上に、自信がまったくないものだった。ヴィクトルの力強い告白とは比べることもできない。
「けど、けどいまはまだ……ごめんなさい!」
お互いの心臓の音が聞こえそうなほど近づいていた身体を突き放し、逃げ出す。
自分の部屋に飛び込み、扉を閉めて、そのまま扉に背を預けてずるずるとその場に座り込む。
(どうしよう)
拒絶して突き飛ばして逃げてしまうなんて。
(なんてことを)
ヴィクトルのことは嫌いではない。むしろ好意を抱いている。
あのまま受け止めることだってできたはずなのに。
拒絶してしまった。
(……苦しい……)
いつの間にか涙が零れていた。
息が上がり、胸が苦しい。
どうして泣いているのかも、どうしてこんなに苦しいのかも、わからない。
わけがわからない。
――怖い。
「ノア」
扉のすぐ外側からヴィクトルの声が響く。
「このままでいい。聞いてくれ」
扉の前に座り込んだまま、返事をすることも、立ち上がることもできなかった。
軽く押されれば、きっと簡単に開くだろう。しかしヴィクトルはそんなことはしなかった。
おそらく扉のすぐ前で、手か額――あるいはその両方を触れたまま、言葉を絞り出している。
「ノア、あなたのことが好きだ」
「…………」
嬉しいのか、苦しいのか。わからない。
溢れ出す感情が涙となって、ただ零れ落ちる。
「だが、何も無理強いするつもりはない。できるならいままでと同じようにいてほしい」
「い……いままでと同じは無理」
こんなに心を動かされてしまったのに、いままで通りには振る舞えない。
「思うまま、自由のままでいい。どう変わっても、変わらなくても。あなたのすべてを愛している」
――こんな言葉は知らない。
こんな切なげな声も、言葉も、知らない。
ただ、自分のすべてを受け入れてくれるという安心感は、混乱する感情を少し落ち着かせてくれた。
闇に浮かんだあたたかな灯のように。
立ち上がり、扉を開く。
まだ顔は見ることはできない。部屋から出ることもできない。
「……逃げて、ごめんなさい。びっくりして」
「ああ」
扉を盾にして、言い訳にならない言い訳をする。
「あの、ちゃんと……ちゃんと考えるから、待ってほしい……ううん、待たなくていい!」
とても身勝手なことを言っていることに気づいて、ノアは大きく首を振った。思わず扉を閉めてしまいそうになり、しかしいつの間にか室内に入れられていた靴先のせいで閉められない。
「待とう」
降ってくる声はどこまでもやさしい。
「心が決まったら聞かせてくれ」
「もう遅いってなるかも」
「それはあまり想像できないな」
ノアには容易に想像できてしまい、罪悪感が積もる。
「ただ、答えが出るまではどこにも行かないでほしい。私の傍にいてくれ」
「うん」
頷いてから、なんだかとんでもない約束をしてしまったことに気づいて、思わず顔を上げる。
ヴィクトルの顔を見てしまえば、いまさらもう保留や撤回はできなかった。
##
秋が深まり、冬が過ぎ、春が来た。
春になると森の奥深くに咲く花を見に、よく森の中に籠っていた。
アルカッサスという名の樹は淡雪のような花を一面に咲かせ、甘く清らかな香りを放ち、ノアを夢幻の世界に誘った。
花が咲いている数日間そこで暮らし、散り初めのころに礼として植物栄養剤を捧げて帰っていた。
いまあの場所はどうなっているだろう。
きっと、森に飲まれてしまったか戦火で焼かれてしまったのだろう。
馬車の窓から、流れていく外の景色を見ながらぼんやりと思う。
「どうした」
隣に座るヴィクトルが聞いてくる。何も言っていないのに、何を感じたのだろうか。
馬車の中はふたりきりだから、ノアの心の状態も普段よりも繊細に感じ取れるのだろうか。
(そういえば、どうしてふたりきりなんだろう)
同じ馬車に乗るのは婚約者なのだから当然とも言える。しかし従者が別の馬車な理由はよくわからない。
(まあいいか)
出発してから早五日。
これまでの道中、深く考えないようにしてきたし、これからも考えないようにする。
意識してしまえば自分を追い詰めるだけのような気がした。
メイドのアニラが同乗してくれていたらきっとこの馬車の中の雰囲気も違っていたのだろうけれど、残念ながらアニラは今日は別の馬車だ。
いや、正確にはふたりきりではない。
ノアは座席の隙間にはまり込むように寝ている黒猫を見た。出発直前に乗り込んできた金の瞳の黒猫――グロリアがいる。
神出鬼没な猫は、すやすやと寝息を立てて深い眠りを貪っていた。
相手はただの無害な静かな猫。ふたりきりではないとはいえ、実質そのようなものだ。
待って、と言ったあの日から、ノアはできるだけ変わりなく過ごした。
ヴィクトルも多分あまり変わっていない。
そのままひとつの冬が過ぎたが、やはり変化しないものなんてない気がする。表面上はそのままでも、内側は変化し続けている気がする。
具体的にはわからないけれど。
「馬車って暇だなぁって。もっと快適な移動方法ってないかしら」
ゴーレムでの移動に比べるとやはり劣る。
フローゼン領から帝都まで馬車で約二十日かかる。途中の街で馬を休憩させたり交換しながら、その土地の観光や領主に挨拶をして移動するのは旅行のようで楽しいが、やはり時間がかかりすぎる気がする。
「ほう」
「例えばだけど、道に車輪を転がすための鉄の道を敷いて、荷台の車輪にその上を滑らせて、馬で引かせるとか。馬も楽になると思うから速度も上がると思うの。帝都まで繋げれば、もっと速く移動できそうじゃない?」
その光景を思い浮かべながら話す。
鉄の道のない部分は街道を走らせればいい。一定距離で馬を交換する場所をつくるのもいい。
思い付きでの話だが、割と具体的に想像できてきたので可能な気がした。
「なるほど。まずはアリオスと旧王都の間で試してみるのもいいかもしれないな」
意外と感触のいい返事に驚く。
(あとはもっと別の動力があればいいんだけど)
錬金術でもなく、馬力でもなく。
誰でも使えて、強い力を生み出せる機関が実用化されれば、この世界はもっと発展していける。
(そういえば、誰かの発表で『蒸気機関』とかあったなぁ……あれ、実用化されたのかしら)
錬金術を使わなくても強い力を生み出せる夢の機関。あの時代は錬金術全盛期だったため見向きもされなかったが、いまなら貴重な動力源になるのではないだろうか。
「ねえヴィクトル、蒸気機関って知ってる?」