3-18 救国の聖女、あるいは
イフリートの姿が消える。
空に大輪の花を咲かせて、跡形もなく消えてしまった。
しかし訪れた静寂はほんの束の間のことだった。
イフリートがいなくなっても、サラマンダーは消えない。火事は収束しない。
燃え上がる侯爵邸の離れと、街中で次々とサラマンダーによる爆発の音が、何も終わっていないことを告げてくる。
「まったく、とんだ置き土産を」
ヴィクトルがニールを供にして防衛隊の本部に向かう。指揮を取りに行くために。
離れの消火やベルナデッタを優先したいだろうに、私情を振り切って進んでいく。
追いかけるべきだ。
いまのノアにはできることがたくさんある。
指示のもとに効率的に動いて、錬金術を用いた消火と人命救助に当たるべきだ。
だが。
燃え盛るアリオスに、火の海の中に身を投じて、駆けまわって。
一か所一か所、順番に消していったところで、果たして間に合うのだろうか。
アリオスの焼失は免れるかもしれない。しかし被害は甚大になるだろう。
燃えた建物や物資はまた復元できる。買い戻せる。
しかし人の痛みや、悲しみ、喪失は、決して取り戻せるようなものではない。
――もっと。
(もっと力が欲しい)
救いたいものをすべて救える力を。この街すべてを助けられるほどの力を。
傲慢な願いだが、この街が、この街に住む人々が、炎の海に消えてしまうことは受け入れられない。
傷つき、失い、涙することを受け入れられない。
(もっと力があれば)
運命を変える力が欲しい。
腰につけた、亜空間ポーチの中を探す。
(何か、何かないの?)
運命も、宿命も、この世の理も、すべて変える力が。
――あった。
不死の王となったアレクシスが消えるときに残した、赤い石。
賢者の石の欠片。
ずっと忌避感を抱いていた力。それでも捨てることができなかった力。
この領域に足を踏み入れることは果たして正しいのか。それを判断できる人間はいない。
いまのノアに理性はない。いまここにいるのは、ただ力を求める獣だ。
賢者の石を亜空間から取り出す。
小さな石を握りしめ、瞼を下ろす。いまは視界は必要ない。
万能な感覚とでも言えばいいのだろうか。
見えなくても視える。理解できる。手が届く。アリオスの街のすべてが。大地が。空が。
(夢の中のよう)
そう、夢を見ているようだった。
(燃えている)
街が燃えている。
あちこちで火が吹き、建物が崩れ、石畳を焼いて、人を傷つけている。火の海が美しくたくましい街を燃やしていく。
(水……水、雨が欲しい)
熱が上空に登っていく。森の水蒸気を、川の、海の水蒸気を集めて、冷やす。湿った風が荒々しく、轟く雷鳴が大地を揺らす。
ぽつりと、雨が落ちた。肌を濡らした。
雨足は瞬く間に強まって、灰色の雨雲が街を覆う。大量の雨は瞬く間に街に浸透し、地面に溜まる。火勢を弱めて、小さな火から消していく。
大きな火も勢いを殺され、徐々に消えていく。火の匂いもすべて洗い流される。
(サラマンダーを)
火を吐く蜥蜴を分解する。
(だいじょうぶ。これは柔らかい)
ライナスはホムンクルスでサラマンダーをつくったと言っていた。この人工の生命体はとても柔らかい。消せる。
すべてのサラマンダーを分解する。
もう、アリオスに脅威はない。
(待たせてごめんなさい)
怪我人を治す。
傷ついたすべての人々を。導力を繋ぎ、中に入り。やけどを冷やし、出血を止め、治す。
人を苦しめる瓦礫を消して、折れた骨を戻す。病を癒やす。
流れ込んでくる。何百、何千という情報が。
熱い水が頬を伝う。
(ああ、やっぱり……)
建物の崩落で死んだ人々、炎に巻かれ死んだ人々。
賢者の石を使っても、死んだ人間は治せない。
雨が上がる。
手の中にあった石が砕けて砂となる。
ノアが瞼を開けたとき、空には大きな虹が輝いていた。
##
気が付いたときには、自室のベッドの上で寝ていた。
部屋は薄暗く、机の上のランプが灯っていた。いつの間にか部屋着に着替えている。記憶がおぼろげだが、おそらく錬金術を使った後に倒れたのだろう。そこからいままでの記憶がまったくない。
頭ががんがんと痛む。
(力の使い過ぎ……)
この街のすべてを見たからだろう。この街と、この街の人たちを。
受け止めた情報量が多すぎて、処理しきれずに脳が暴走を起こして、強制終了したと思われる。
ベッドに寝たまま、窓から街を見る。
外はもうすっかり夜になっていた。夕暮れの名残さえ既にない。澄み渡った紺碧の夜空に星の輝きが見える。
街の方に火災が残っている様子はない。灯っているのは、穏やかな営みの火だ。
街と空の境にある壁の影を見つめる。アリオスを守る外壁を。あの壁だけは、この災禍を経ても一切の傷がない。
(アリオスの壁……)
この街に意識を深く潜らせてみて、わかったことがある。
アリオスは、基礎が錬金術でつくられている。
街を守る城壁も。
こんこんと湧き出し続ける温泉も。錬金術によって遥か昔につくられたものだ。
アリオスは錬金術の王国の王都を攻めるために作られた城郭都市だ。帝国側にも錬金術師がいて、王国との戦争に貢献したと考えるのが自然だろう。
(この世界は本当に、複雑)
再び瞼を下ろそうとした時、扉がノックされる音が響いた。
「どうぞ」
ノックの仕方で誰かはもうわかる。部屋に入ってきたのはやはりヴィクトルだった。
「おかえりなさい」
いままで事後処理に当たっていたのだろう。外套を脱ぎ、剣を放してはいたが、ヴィクトルからは外の匂いがした。
「お疲れ様」
さすがに寝たままというのは行儀が悪い。せめて身体を起こし、毛織のストールを肩に羽織る。
「外の様子はどう?」
「火事の騒ぎはもう落ち着いた。もう片付けと再建準備に入っている」
「そう」
「アリオスを救ってくれたこと、礼を言う」
――バレている。
「皆、奇跡だと言っている。女神が起こした奇跡だと」
ヴィクトルはかすかな笑みを浮かべながら、ベッドの前までくる。
「ノア。あなたこそが女神だと言う声も広がっている」
「ああああ……揉み消してぇ……」
「無茶を言う」
ヴィクトルは苦笑する。
「一度広まった噂は収拾がつかない。それが真実ならば尚更」
「……真実だと思う?」
「それ以外に考えられない。あなたの治療を受けたことがあるものは、全員そう思うだろう」
「そうなの……でも、同じことはもうできないわ」
賢者の石は輝きを失って、砂となってしまったから。もう奇跡は起こせない。
「そうか」
ヴィクトルは頷く。落胆などはなく、ただ事実を確認するように。
「アリオスを災禍から救ってくれた事実に変わりはない。礼を言わせてくれ。この街の領主として」
「…………」
間違いはない。
ただ、災禍をもたらしたのがノア自身だということも間違いない。
――あの時、ああしていれば。
胸の中に浮かぶのは、そんなどうしようもない後悔ばかりだ。
黙ったまま、ベッドの端をとんとんと叩く。
「座って」
めずらしく察しの悪いヴィクトルにそこに座るように促す。
座った後に見えるのは背中だけ。表情は見えない。
シャツを変えていないのだろう。激しい雨に打たれた名残で濡れている。帰ってきて、外套だけ脱いで、ここに来たのだろう。
「ベルナデッタ様は……?」
意を決して、問いかける。
「消えていた」
溶けて消えたのか。
燃え尽きて消えたのか。
ヴィクトルがやさしい嘘をついてくれているのか。
短い一言ではわからない。だがそれ以上聞く勇気もない。
「これでよかったのかもしれない」
永遠とも思える沈黙の中、ヴィクトルは背中を向けたままそう言った。
「魂があの身体を見つけていたら、きっと困っただろうからな」
「…………」
「葬儀は三日後、この火災の犠牲者と合同で行う予定だ。できればあなたにも参列してほしい。無理にとは言わないが」
ヴィクトルの背中を抱きしめる。
背中に頬を寄せ、両腕を前に回し、震える手で抱きしめる。
溢れた涙がシャツを濡らす。もう濡れているのだからきっとわからないだろう。
「ノア……」
「我慢しないで」
ここには他に誰もいないから。
「泣いて、いいから……いまなら、誰にもわからない……」
ノアの泣き声が響いているから、ノア自身にすらきっとわからない。
侯爵でも、領主でもなく。ひとりの兄として。人間として。
「家族を失って、悲しくないはずがないもの……」
身体の前に回していた手が、重なるように握られる。
その手の感触があまりにも優しすぎて。
子どものように泣きじゃくった。