3-17 天空の大花
燃え崩れ始めた室内から全員で外に出る。中庭の冷たく新鮮な空気が肺を満たし、肌を冷ます。
壁に開けた穴はそのままにしておく。イフリートが下手に壁を破って出てくると屋敷の崩壊が加速する。
ノアの思惑通り、壁に開いている穴から燃える魔人――イフリートが現れる。
ノアの想定よりも早く。
距離を取りながら、イフリートの構造を視る。
前回のメドゥーサのように硬くはない。だが急流のように非常に流動的で、常に変化しているため分解できない。
パチパチと炎が爆ぜ、離れが燃え始めた。穴から新鮮な空気が取り込まれて、炎にも勢いを与えてしまう。
イフリートはしばらくの間、外と内側の境で立っていた。中で眠るベルナデッタを気にするように。
そして、歩き出す。宙に浮いたような軽い足取りで、外に。
ノアは目を疑った。本当に空中に浮いていた。ふわふわと、幽霊のように浮いて進む。
ヴィクトルの剣がイフリートの腹部に突き刺さる。
――剣とはそのような使い方をするものだっただろうか。
些細な疑問を嘲るように、剣はイフリートの身体をすり抜けて、壁に突き刺さる。
もう彼には肉体はないのだ。
肉体を失った彼はもう、人間ではない。神に近しい存在は矮小な人間など見ていない。地上を這う人間たちを無視して、空へ上る。
侯爵邸の屋根よりも高い位置で、浮遊が止まる。
まるで小さな太陽だ。
炎の化身が見ているのは街だった。城郭都市アリオスを見下ろしていた。
その高みからはさぞかし街がよく見えているだろう。街並みも、そこに生きる人々も、人の営みも。
アリオスの東の方で、爆音が響いた。
東だけではない。南からも、西からも、北からも、次々と遠くに近くに爆発する音が響き、重なる。
ライナスの言葉を思い出す。
――この街を火の海にするのにはサラマンダーは何匹必要か、と。
(仕込んでいたサラマンダー?)
それに命令を下したのか? それとも時間が経てば動き始めるように細工をしていたのか。
どちらにせよ。
街も心配だがいまはこのイフリートをなんとかしないとならない。こんなものを外に出すわけにはいかない。被害が拡大するだけだ。
(考えろ。考えろ。考えろ)
イフリートはどうすれば止められるか。青い空に悠々と浮かぶ炎の魔人を、どうすれば。
水をかけてもすぐに蒸発するだろう。
地中に埋めても周りの土を溶かすかもしれない。そうなれば侯爵邸ごと沈むかもしれない。被害は甚大だ。
質量がどんどん減っていっていることを利用して、空に打ち上げてみようか。しかし打ち上げる施設をつくるのには準備が必要だ。組み上げるのは錬金術でできるとしても、設計が必要になる。ゆっくり考える時間はない。
亜空間ポーチの中に封じる? 吸い込ませれば不可能ではない気がする。ノアやポーチが熱に耐えきれればの話だが。頭の奥の冷静な部分がそれは無理だと言っている。
――そもそも。
あの高さにいる相手に、ノアの導力は届かない。
「…………」
地上に引きずり下ろすのは無理。下から何かを打ち上げるくらいしかできない。
しかし何かを打ち上げたところで、あの身体はもうガスのようなものだ。矢も槍も効かない。
(割と詰んでる)
こんな時こそ落ち着いて考える。絶望的な状態の時ほど、気楽に考える。
(時間が経てば、おそらく自然崩壊する)
時間の経過とともに炎が強まり、身体が小さくなり、最終的には消滅するだろう。
しかし悠長に待っていれば被害は拡大するばかりだ。イフリートが消えるのが先か、アリオスが焼失するのが先かの話になってくる。
「やっぱり火には火を。爆発には爆発を!」
決意が勢いあまって言葉になる。
「トルネリア!」
「うえええ」
「あれを爆破して」
サラマンダーの火球に爆発をぶつけて相殺したトルネリアならできる。
トルネリアは顔を引きつらせ、ぶんぶんと首を振った。
「無理じゃ。我ではあれは吹き飛ばせん」
「だいじょうぶ、合わせる」
トルネリアの手をぎゅっと握る。
不安に揺れる紅い瞳をまっすぐに見つめる。
「私だと、あそこまで届かない。でもあなたが届かせて基礎をつくってくれれば、強度や威力は強化する」
「そんなことが――」
「私を信じて」
きっとうまくいく。やったことはないけれど。
「失敗したらどうする」
「だいじょうぶ、死ぬとしたらみんな一緒よ」
「お主は軽い! ふわふわしすぎだ! ああもう、どうにでもなれ!」
トルネリアの了解を得られた。ノアは嬉々としてトルネリアの手を握る。
「お主は、不思議なやつだ」
呆れたつぶやきに、微笑んで返した。
導力の糸が、イフリートの足に巻き付く。気づかれないように少し浮いた状態で。
爆発音が街中から届いてくる。胸を痛ませるそれを聞かないようにしながら、集中する。
トルネリアは力を凝縮させたものをイフリートの近くに作り始めた。それが起点となる。
さすがに手慣れたものだった。形成が早い上に綺麗だ。理に叶った形が見える。
生まれた力の塊を、強化していく。殻を強化しながら、内側の力を増していく。もっと大きな爆発が起こるように。もっと、もっとだ。
もっと高く打ちあがるように。
そう。雲の上、空の上まで飛んでいくように、爆発の位置を真下に動かす。
殻の下を強くし、上を弱くする。爆発の影響が街に広がらないように。
高く高く。もっと高く飛べるように。
「こ、こら、あまり勝手をするでない」
(ごめんなさい。でも必要なことだから)
困惑するトルネリアに心の中で謝る。
(でも、ほら。もうすぐ綺麗にできるから)
星をつくっているかのような不思議な感覚だった。
「もう限界だ! 行くぞ!」
「うん!」
限界まで力を圧縮された星が、いま枷を外される。
「行っけええええ!」
眩い光が空を焼き、あらゆる闇を消し飛ばす。
空気が破裂する音が降り注ぎ、イフリートの絶叫も、街から響く爆音も掻き消す。
炎の身体が打ち上がり、どこまでも高く高く昇っていく。
ひときわ眩しい閃光が空を切り裂き。
天空に炎の花が咲く。
雲が遥か彼方に吹き飛ばされ、空にどこまでも青い空間が広がっていた。
世界を、森を、街を、髪を揺らす爆風が収まったころには、青い空はいつもと同じようにただそこにあった。






