3-15 断罪
馬車が止まり、ライナスが扉を開く。
眩い光が差し込み、澱んだ影を晴らす。そこは侯爵邸の玄関前だった。
「失礼します」
降りたライナスに引きずられるように外へ連れ出される。
まだ薬が残っているのか、立つと眩暈がした。
馬車が去っていく。
御者をちらりと見たが、こちらを怪しんでいるような様子はなかった。おそらく具合の悪くなったノアを侯爵邸まで送るとか、そんな風に言いくるめたのだろう。
扉が開く。中から出てきたのは使用人のクオンだった。
「またいらしたんですか」
「侯爵様と取り次げ」
軽いため息をつくクオンの前にノアを盾のように突き出し、高圧的に命じる。
クオンはノアを見て、再びため息をつく。面倒を起こしてくれたなと言いたげな視線が痛い。
「少々お待ちください」
クオンが呼びに行くまでもなく、ヴィクトルがニールを連れて奥から出てくる。
外出着に剣を携えた姿で。
視察に向かうところだったのだろうか。ライナスとノアの姿を見ても驚く様子はなかった。
いつもと同じ、落ち着いた為政者の姿。
「お久しぶりです侯爵様。僕のことを覚えていらっしゃいますか? あ、すみません。一介の医師見習いのことなんて覚えていらっしゃらなくて当然ですよね」
恥ずかしそうに頭を抱える。
「ライナス医師。こちらから迎えに上がろうとしていたところだ」
「ああ! 覚えていてくださったんですか! そしてわかっていてくださったなんて!」
ヴィクトルの表情は読めない。
ただ、静かで。夜の森のように静かで、怖い。
頭の奥がくらくらする。薬も、この手錠も、もどかしい。
迷惑をかけてばかりで情けない。せめて手錠さえなければ取り押さえるのに。
錬金術封じの手錠の効果は本物だ。先程から何をどうやっても発動しない。
「お願いします。もう一度ベルナデッタ様を診させてください。必ず治してみせます」
自信たっぷりに胸を張る。
本当に治す手段を持っているのかもしれないとノアでさえ思うほどに。
「……本当にそれが可能ならば、まずは我が婚約者から治していただけないか」
「物事には優先順位というものがあります」
ライナスにとってノアは人質としての価値しかない。
ヴィクトルは無言のままニールに目配せをする。途端にライナスが焦りだした。ノアの腕をつかむ手が震えている。
「い、いま断わられると、ノア様もこの街もどうなってしまうか、僕にもわかりません。サラマンダーが一匹や二匹だとお思いですか? アリオスを火の海にするのには何匹必要か、侯爵様は計算されたことがおありですか?」
「なるほど。中央通りの騒ぎも医師の仕業か」
薄い笑みを浮かべ、ゆっくりと頷く。
「侯爵! そやつを捕らえろ!」
烈火のごとき怒りの声を共に、トルネリアが二階の客室の窓から飛び降りてくる。
「よくも母を殺したな! 母が受けた苦痛以上のものを味合わせてやる!」
軽やかに立ち上がり、ライナスに掴みかかろうとしたトルネリアを、クオンが後ろから押さえた。
「我が君がお話し中です。少々我慢を」
「放せ! あんな外道と何を話すことがある!」
本物の怒りと悲しみによる、心が千切れそうなほどの悲痛な叫びが響く。
ライナスの小さな舌打ちが聞こえた。
ノアの知っているライナスという人間は、最初からどこにもいなかったのかもしれない。
(壊れている……)
この男は壊れている。
「案内しよう」
ヴィクトルはいつもと変わらない落ち着いた様子で、背中をこちらに向けて歩き出す。
「獣人は控えろ。その白髪の女もだ」
ライナスはノアを押し出し、ヴィクトルの後ろについていく。
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三人きりで侯爵邸の敷地内を進む。渡り廊下を通って中庭を抜け、ベルナデッタが眠る離れの屋敷へ。
ライナスに押されように歩きながら、ノアは前を歩く揺るぎない背中を見つめた。
ヴィクトルが言うことを聞いているのは、もしかしたら本当に治せるかもしれないという、ささやかな希望と。街を人質に取られているからだ。
治療がどのような結果になっても、ヴィクトルはライナスを許さないだろう。絶対に。領主として、家族として、然るべき罰を与えるだろう。
ライナスはそんなことに気づいていないのか、それとも切り抜ける自信があるのか、感動の再会を前に興奮していた。足取りは軽く、何やらぶつぶつと呟き続けている。こんな近くにいても聞きとれない言葉を。
「ああ、やっと、やっと会えた……ベルナデッタ……!」
ベルナデッタの部屋に入ったライナスは、感激の声を上げてベッドに駆け寄る。感極まった涙が頬を濡らしていた。ライナスは何年もこの瞬間を待ちわびていたのだ。
腕を引っ張る力が強まる。ライナスに引きずられるようにベッドに近づくと、ぱっと手が離れた。もう用済みとばかりに。
ヴィクトルは入口近くでライナスの行動を眺めていた。
「いまから僕が治して差し上げますから!」
ライナスが興奮気味に革鞄から取り出したのは、赤い液体が入った薬瓶だった。ルビーを溶かしたような紅が、光を受けてきらきらと光る。
蓋を開け、ベルナデッタの口元へ。
ふっくらとした唇を赤く染めて、口には入らず肌と髪を濡らし、シーツに吸い込まれていく。
飲めるわけがない。その口が開くことはないのだから。
ライナスは焦ったように瓶の中身をベルナデッタにかけた。顔に、胸に、手に。瞬く間に瓶は空となる。
しかしただベルナデッタとシーツを汚しただけで、何の変化も現れない。その兆しすらない。
目が開くことも、指先が動くことも、呼吸を再開することも、ない。
「何故……何故だ! くそ、あの女……! ああ、そうか……古くなってしまったからか……侯爵、あの白髪の女をここへ。一滴残らず血を絞ってやる」
「もう終わりか」
氷の声と共に。
剣が閃きが、ライナスの右腕を斬り飛ばした。
「……え?」
赤い軌跡を描いて壁に当たり、床に落ちるそれを、ライナスは呆けた表情で見つめていた。
「え?」
左手で右腕の切断面を押さえる。何が起こっているかわからないという声を零しながら。
「最初は手だった。物を持つことができなくなった。本のページをめくることすらも」
真新しい血の匂いが充満していく。
血に濡れた剣を携え、ヴィクトルは静かに言う。
「次は足だった。歩くことも、立つことも、やがて座ることもできなくなった」
「ひっ」
滑って床に腰をぶつけ、腕を押さえながら後ずさる。流れていた血はいつの間にか止まっていた。錬金術で治療したのだろう。
「心得があるのか。それはいい」
ヴィクトルが薄く笑う。剣の切っ先が、ライナスの心臓を指し示した。
「口はまだ使い道があるか」
それ以外の必要ない部分を削ぎ落すつもりだ。ベルナデッタが徐々に失っていったものと同じ順番に。
ぞっとするぐらい冷たい目だった。
「やめて!」
ヴィクトルの剣の前に身体を晒す。ライナスを庇うようにして。
「そこを退いてくれ」
首を横に振る。
退けない。
視界が滲む。歪む。泣いている場合ではないのに。
怖い。剣が怖い。ヴィクトルが怖い。逃げだしたい。それでも。
「こんなことをしても、あなたが救われない」
ヴィクトルが傷つくだけだ。気持ちが晴れることはない。
激情のままに、復讐心のままに惨たらしく傷つけても救われない。
ノアの言っているのは甘い綺麗事だ。
ライナスは罪を犯した。
大罪をいくつも犯した。
ヴィクトルは領主で、罪人を裁く仕事がある。
それでも。死刑が相当な罪でもきちんと裁かれるべきだ。
静寂が続く。
一秒が永遠にも感じる。
ヴィクトルの心の中はわからない。
怒りも迷いも葛藤も悲しみも。
剣は揺るがない。
すべてを切り捨てて進むというのなら、その剣に斬られたい。
――けれど。
剣先が揺らぐ。
わずかな呼吸の乱れと共に、剣が鞘に納められる。すべての感情を苦さと共に飲み込んで。
――そうだ。
すべてを切り捨てられない人だから、持てるすべてで支えたいと思ったのだ。






