1-6 永遠の眠り姫
翌朝。
ニールの作ってくれた絶品の朝食の後、ノアは侯爵邸の奥へと進む。先を歩くのはヴィクトルだけで、他は誰もついてこない。
服はまた新しいドレスが用意されていたが、断っていままで着ていた自分の服を出してもらった。洗濯途中ということでまだ濡れていたが、渋るアニラには着ているうちに乾くと無理を言い、実際には水分を蒸発させて乾かした。
ヴィクトルの妹が寝ている場所は、奥の離れにあるという。
白い石造りの回廊を通り、中庭を歩く。ささやかながらも、しっかりと手入れのされた中庭だった。白薔薇の花壇に、清らかな水が流れ続ける噴水。
美しい庭だが、ノアの心が休まることはなかった。この先に何があるのかを考えただけで、足取りが重くなっていく。
ただ患者を診察しに行くだけなのに。
ここまで隔離されているとなると、伝染病か心の病か。
先入観を持つのはよくないが、心構えは必要だ。
それに。
(貴族の頼みって、基本的に重いものが多いのよね)
なんでもできるはずの貴族が、錬金術師に頼ってくるとき。
それは奇跡を願うときだ。
離れの一階の、一番奥の部屋。
日当たりのいい部屋だった。中に入ると、飾られている白薔薇の芳香が微かに漂う。華美ではないが質のいい調度品で揃えられた部屋の中心に、天蓋付きの大きなベッドがある。
「私の妹だ」
ベッドには若い女性が眠っていた。
「名はベルナデッタという。今年で十八になる」
豊かな銀色の髪。
整った顔立ち。バラ色の頬に、ふっくらとした唇。
女性的なやわらかな身体つき。
その造形の完璧さは氷の彫像のようだった。
兄妹というだけあってよく似ている。閉ざされた瞼の下には、きっと宝石のような青い瞳が眠っているのだろう。
ヴィクトルはベルナデッタの枕元に立ち、澄んだ瞳で顔を見つめた。
「妹はある時から、少しずつ身体が動かなくなっていった。まるで凍てついてしまったかのように」
ノアは少し離れた場所から、ベルナデッタの身体の構造を見た。
これが病だとしたら、不思議な症状だ。身体の組織が変質している。
筋肉も皮膚も神経も、血も体液も、身体を構成するものすべてが。本来とは違う形に変わってしまっていた。
「見た目は何も変わらず、しかし自力で動くことができなくなり。一年前、こうして目を閉ざしてしまった。それからは食事もとらず、ずっと眠り続けている」
「……なるほど」
ノアは瞼を下ろし、視界を閉ざした。
ベルナデッタに向かって小さく一礼する。
「ごめんなさい。死んじゃった人間は治せないんです」
「死んではいない」
ベルナデッタの姿は一見、生きているようにしか見えない。
それでも彼女は死んでいる。
生きている命には皆、きらきらと光る輝きが見える。美しく輝く魂の光が。
しかし、この令嬢には一切の光がない。
「はい。まるで生きているようですけれど、魂が離れてしまっています」
その存在は一見、とても美しい。まるで女神のように。
「私にはどうしようもありません」
「どうしても、か」
「可能なことと不可能なことがあります」
傷ついた魂の修復方法は知っている。
けれど消滅してしまった魂の復活方法はまだわからない。
それを唯一可能にすると言われているのは、『賢者の石』だけだ。
(あれは夢想の産物)
錬金術師の「あったらいいな」という夢でしかない。
その可能性を口にして、残酷な期待を抱かせたくはない。
そもそも魂を戻せたとして。
この身体を元に戻せるかと聞かれれば、そんな約束はできない。
「申し訳ありませんが、私では力になれないようです。それでは、失礼します」
(諦めてないよなあ、あれ)
ローブの前をぎゅっと握りしめながら、歩いてきた道を早足で戻る。
背中がぞわぞわする。
最後に見たヴィクトルの目。
あの目はまったく諦めていなかった。
寒い。怖い。早く逃げないと。
こんなところでフローゼンの血を感じてしまうなんて。
(それにしても、あの病気)
初めて見る病気だ。
全身が硬質化して、魂が消えた後もその時の状態のまま、残り続けるなんて。
(悪い夢のよう)
できれば触れてみたかったし、調べてみたかったし、周囲から話を聞いてみたかったが。
ヴィクトルはまだ肉親が生きていると信じている。
死者として、研究対象として扱えば、怒りに触れるだろう。
そんな恐ろしいこと考えたくもない。
逃げて、忘れる。
ヴィクトルも、ノアが役立たずだとわかったら興味を失ってくれるだろう。
脚力を少しだけ強化して早足で歩く。すぐに中庭に差し掛かり、赤い空が見えてくる。
晴れ渡った空に、大きな鳥の影が見えた。
「……ん?」
不信感が芽生える。いくらなんでも大きすぎないか、と。
悠然と翼を広げるそのシルエットは、一瞬飛竜を思い出させる。
しかし飛竜だったのは翼だけ。
頭は猛禽類の鳥のもの。
胴体は獅子。
尾は蛇。
部位それぞれが、まったく違う獣の特徴を持っていた。
――キメラ。
嘴から放たれた、耳を削られるような不快な鳴き声が、空に、中庭に、響き渡る。
「えれ、の、あーる!」
続けて叫ばれたのはまるで人間の言葉だった。
ノアは耳をふさぎながらキメラを睨み上げる。
――エレノアール。
「なんで……」
あんな奇妙なものに昔の名前を呼ばれなければならないのか。
どうしてあんなものが自分の名前を知っているのか。
不快だ。すごく不快だ。
「落とす」
キメラの製造方法や構造にはあまり詳しくないが、歪でありながら完成されている造形は、結合箇所が弱い場合が多い。
街の方から慌ただしく響く警鐘を聞きながら、ノアはキメラの構造を読もうとする。
早く始末をつけなければ、兵士が集まってくるはずだ。できるだけ早く始末したい。
しかしこのキメラ、構造が読みにくくて仕方がない。
「どうなってるのよ」
どんな作り方をしたらこうなるのか製作者を問い詰めたい。
表面だけではなく内側も、がっつりと混ざり合っている。神の造形物のごとく完成されている。
違う。こんなものが、神の造形物であるわけがない。こんなことが可能なのは――
「錬金獣だ!」
侯爵邸の外から聞こえる誰かの叫び声。
(錬金獣……錬金術の、獣……そうね、錬金術ね。どう見ても錬金術よね。私もそう思う)
諦めと共に、怒りがふつふつと湧いてくる。
「よくも錬金術の評判を落としてくれたわね!」
ヴィクトルの話を思い出すととっくに地の底な気がしたが。
現在進行形で貶められて許せるはずもない。
「絶対に、落とす」
キメラは咆哮を上げながら、街の上をぐるぐると優雅に旋回する。まるで何かを探すように。
「えれ、の、あーる!」
呼ぶな。その名前を呼ぶな。
(もしかして私を探している?)
この状況下ではそうとしか思えない。
三百年も姿を消していたというのに。もしかして三百年間、その名前を叫んで飛んでいたのだろうか。
背筋がぞっとする。そして心の底から安堵する。
(本名を名乗らなくてよかった)