3-14 帝国の医師
石畳の上を走る馬車が、僅かな凹凸を拾ってガタガタと小さく揺れ続ける。
その振動をノアは横になった姿勢のまま感じていた。
(馬車……?)
はっきりとしない意識の中で、それでも何とか考える。瞼に当たる光は弱い。馬車の窓がしっかりと閉じられているからだ。
身体が痛い。無理な体勢だからだ。座った状態で横向きに寝ていて、両手は後ろに。手首が何か固いもので拘束されている。手錠だ。帝国警察のレジーナからプレゼントされた錬金術封じの手錠。
本来なら冷たいはずのそれは、体温を吸収して温まっていた。
「ちょうど良いものを持っていらしたのでお借りしました」
閉じられた空間に、優し気な声が響く。
「ノア様は錬金術師なのですね。僕にも多少は錬金術の心得があるんですよ。あまり才能はなかったので見放されてしまったんですが」
瞼を開く。向かいの席にライナスが座っていた。ノアの顔を覗き込むようにして。白衣の白さが薄暗さの中でもはっきりとわかる。
頭と視界がぼんやりとするのは何か薬を嗅がされた影響か。
何か言いたいのに、深い夢から覚めたばかりの時のように、思考が、口が、働かない。
「あなたを高く買ってくださる御方がいます。病気の方も心配なさらないでください。ちゃんと治して差し上げますから。――ベルナデッタ様の後で」
馬車が走る。
身体を起こしたいが、後ろ手で縛られていると動きにくい。
寝たままの姿勢でなんとか口を開く。
「さっきの人たちはどうなったの?」
「この状況でゴミの心配ですか。お優しいことですね」
「そんな、言い方――」
「獣というだけで罪深いのに。ああいうものは人間のクズ、街の汚物だ。そういったものを有効に利用しただけですよ。あとは捨て置いていればいい。掃除屋が回収してくれる」
眼鏡の奥に潜む瞳の冷たさに、ぞっとした。
「あなた、本当にライナスさん?」
普段の彼からそんな言葉が出てくるとは思えない。彼は患者に寄り添う、やさしく親切な医者だった。別人が化けていると言われた方がまだ納得がいく。
ライナスはにこやかに笑う。
「そうですよ。医者で、帝都育ちの、一応貴族の三男坊です」
自虐気味に肩を竦める。
「三男ともなると自分で身を立てないといけませんからね。医者が自分に合っていたので学んで、高名な先生に弟子入りして、見習いとして働いていた。ベルナデッタ様にお会いしたのはその頃です」
気分が高揚しているのか、ライナスはよく喋った。誰かに聞いてほしくてたまらないように、聞いてはいないことも。
「一瞬で恋に落ちた」
「…………」
「たぶんベルナデッタ様も」
(その自信はいったいなに)
どうして一目ぼれした相手が自分のことも好きになってくれたと信じられるのか。
ノアは恋を知らないが、そんな都合のいいものではないと思う。そんなに簡単なものならば、婚約破棄も惚れ薬もきっと存在しない。
「侯爵家の令嬢としがない下級貴族の三男坊。身分違いも甚だしい。近づくことすらできない。ですがその苦悩をわかってくださる御方がいらっしゃった」
「……誰?」
「僕ごときがお名前を口にすることも許されないような御方です」
「その御方の手引きで……好きな人を病気にしたの?」
死に至る病に。
「仕方なかったんです」
「なにを――」
傷ついた被害者のような顔をして。
「侯爵様が早く埋葬してくれるか、広く医者を探してくれたら、もっと早く再会できただろうに……侯爵様はすっかり人間不信になられて……運命は残酷だ。こんなに時間がかかってしまった」
運命を呪い、歯噛みする。
(なんなの、この人!)
ライナスの話を聞いている限り、ベルナデッタに一方的な恋をして、普通では結ばれない身分差だから、病気にして殺して、攫って、治して蘇らせて――自分のものにするつもりだったということだろうか。
(馬鹿げている)
人を人とも思っていない暴力的な行為も。
短絡的な思考も。杜撰な計画も。
何もかも馬鹿げている。
毒をつくった一族だというトルネリアさえベルナデッタを治すことはできないと言った。ノアも同じ考えだ。死んだ人間は生き返らない。それなのに。
(この自信の根拠はなに?)
心臓が握りつぶされているように痛い。
こんな人間を信頼していたことが悔しいし、情けない。
ノア自身のことは自業自得だ。信頼して痛い目を見ているのも、油断して病気にさせられたのも。
けれどベルナデッタに対する行為だけは許せない。
自分勝手な理由で病気にさせて健康を、命を奪い。多くの人を悲しませた。
――許せない。
馬車が走る。
どこに向かっているのだろう。ライナスの目的を考えれば侯爵邸か。馬車の業者は無関係なのだろうか。
このまま利用されるのも、人質のように使われるのも、売り飛ばされるのも我慢ならない。
(手錠をなんとかしないと)
鍵自体は単純なものだ。レジーナから貰った後に構造を調べに調べた。針金一本あれば鍵は開けられる。金切り用のハサミさえあれば鎖は切断できる。
問題はいまはどちらもないことだった。
手錠をつけられた状態のまま、格闘して勝てるだろうか。ライナスは細身だが体格差がある。うまく不意を突かなければ勝てない。戦うより、機を見て逃げ出すほうが現実的か。
(落ち着け)
逸る気持ちを抑える。いまするべきことは短絡的に行動することではない。できるだけ情報を引き出しながら、油断させること。
ノアを病気にしたのは、ベルナデッタが罹った病気と同じそれを見事に治して、ヴィクトルの信用を得て、ベルナデッタに引き合わされることを狙ったからだろう。
それは計画としては理解できる。だがどうしても理解できないことがあった。
「……サラマンダーもあなたの仕業?」
「ええ。ホムンクルスですが、よくできているでしょう?」
「…………」
どれだけ多くの人を傷つけたと思っているのだろう。その現場にいながら、その治療をしながら、悪びれなく言う。
「なんのためにあんなものを街中に放ったの」
「ささやかな保険ですよ。それにしてもサラマンダーもご存じとは、博識ですね。いつの時代の人間ですか?」
「三百年前」
「ははっ、笑えない冗談だ」
ライナスは楽しそうに笑い、目を細めた。
「僕の錬金術の師もおっしゃっていましたよ。三百年前、王国では錬金術が隆盛を極め、そして滅びたと、まるで見てきたように言って。滅びたくなければ身の程を知り、研鑽を極めろと」
「面白い方ね。ぜひお会いしてみたいわ。お名前はなんていうのかしら?」
「マグナファリス様です」
――神代の錬金術師。王国建国以前からいたという、国家錬金術師。
(本物か、騙りか)
わからない。
だが、その名を名乗る錬金術師がいることだけは確かだ。
馬車が止まった。






