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3-4 硬質化する病



 侯爵邸の敷地内には温泉がある。

 本館と繋がる別棟の中にある、少人数で使える浴室がそれだ。

 滑らかな石造りの大きな浴槽には、一日中たっぷりの湯が満たされている。

 常にこの状態なのだから贅沢すぎるというものだろう。


「あー、気持ちいい」

 ノアは浴槽の中で手足を伸ばし、心からの声を上げる。

 少しとろみのある柔らかな湯が、じんわりと身体を温めてくれる。疲れたときはこの温泉に入るに限る。

 不意に、右腕に尖った石を押し付けられたような痛みが走った。

 どこかで引っ掛けたのだろうか。怪我をしていないか右腕を湯の中から引き上げて、見て、言葉を失った。


「え……?」

 右腕に、きらきらと光る透明な鱗のようなものが張り付いていた。ひとつではない。いくつも。

 触ってみる。硬い。

 よく見ると、皮膚が変化して硬質化しているのだとわかった。

 あたたかな温泉の中にいるのに、血の気が引いていく。

 この状態には見覚えがあった。



##



 浴室から出たノアは、そのまま部屋には戻らず中庭を歩き、離れの方へ行く。

 侯爵邸の離れには眠り姫がいる。

 ここに来たばかりのころヴィクトルに案内されて出会い、それ以降はほとんどここには足を運んでいない。彼女を見るたびに己の未熟さを思い知らされるから。


 離れの一階の、一番奥の寝室。天気のいい日はとても日当たりがよくて明るい部屋だが、今日はあいにくの雨だった。

 瑞々しい白薔薇の芳香が香る部屋の中、天蓋付きの大きなベッドに若い女性が眠っている。


 ヴィクトルの妹、ベルナデッタ。

 豊かな銀色の髪。整った顔立ち。完璧な美しさは、兄妹というだけあってよく似ている。

 どれだけ見つめていても、彼女はほんの少しも動かない。


 ノアの診断では彼女は死んでいる。

 まるで生きているようだが、その全身は硬質化している。筋肉も皮膚も神経も、身体を構成するものすべてが、本来とは違う形に変わってしまっている。


 もし肉体を治療することができたとしても、離れてしまった魂を呼び戻す術をノアは知らない。

(魂を別の器に収めたことはあるけれど)

 もし肉体を治療し、魂を取り戻すことができたなら、彼女も生き返らせることができるのだろうか。

 いまのノアにはどちらの方法もわからないが。




「ノア様、こちらにいらしてたんですね」

「アニラ……」

 メイドのアニラが、ベルナデッタの身体を拭くための湯と布と着替えを持って、部屋に入ってくる。

「ねえ、アニラ。ベルナデッタ様の身にいったい何があったの」

「えっと……あたしも旦那様たちがこちらに移られてから雇われましたので、詳しくは知らないのですが」


 ベルナデッタを見つめる。遠い思い出を見つめる瞳で。

「お嬢様は帝都で暮らしていた時に、この病気に罹ったそうです。元々病弱でいらしたそうなのですが、ますます弱られて……」

「罹ったのは、何歳の時かわかる?」


「確かその時は十四歳だったかと……こちらに移られたのが十七歳で、その年に意識を失われて」

 そしていま十八歳。

「お話しできたのは短い期間でしたけれど、お嬢様はとてもよくしてくださって」

 いつも明るく輝くアニラの瞳から、涙が零れる。

「アニラ……」


 いまのノアには、アニラを慰める言葉が出てこない。

 アニラは涙をぬぐい、微笑む。

「あたしはだいじょうぶです。さあ、お嬢様。失礼しますね」



##



 夕食後、部屋に戻ったノアは、椅子に座って硬質化している腕を眺めていた。

 光を受けなければほとんど目立たない。長袖や手袋を着れば容易に隠せる。ただしこの病は徐々に全身に、体内にも臓器にも脳にも広がっていき、いずれは命を奪うのだろう。


 ベルナデッタの姿と、アニラの話を思い返す。

(二年は猶予があるということかしら)

 自分の考えに吐き気がする。

 それでもなんとか平静を保つ。冷静にならなければいけない。病や傷と向き合った時、必要なのは情ではない。冷酷なまでの判断だ。


「…………」

 意識を集中させ、目に導力を通し深く視ようとする。

 その瞬間、全身に激痛が走った。

(やっぱり)

 薄々感じていたことが確信になる。


 再び腕を見てみると、硬質化している部分が増えていた。

 この病の正体はいまだにわからないが、ひとつだけ確実なことがある。

 導力を使うと悪化するということだ。

(……私は二年より早そうな気がする)


 こうなればもう錬金術はもう使えない。錬金術は導力によって発動する。導力を使わない錬金術もあるが、ノアは導力を使う方が多い。

 余命が縮むとわかってしまえば気軽に使うことはできない。

(ここを出るしかない)


 ノアは錬金術師としてここにいる。

 錬金術が使えなくなってしまえば、ここにはもういられない。

 それに肌に症状が出てしまっている以上、病を隠し通すことはできない。この病を見れば、この家の人々は気づくだろう。ベルナデッタと同じ病だと。

 その時どんな気持ちになるのか、想像するだけで胸が苦しくなる。


(よし)

 方針が決まればあとは行動するだけ。

 このまま夜の内に抜け出せば不自然すぎてきっと途中で見つかる。明日、普通に出かけるふりをして家を出て、そのまま帰らずアリオスを出よう。


 西へ行こうか東へ行こうか。

 西には旧王都と海しかない。

 ならば東。東の世界を見に行こう。

 東門は人の出入りが多い。人の流れに紛れて、外に出ることは容易なはずだ。


(旅に必要な道具とお金はポーチの中にあるけど、導力を使わなければ取り出せない……)

 これはもう無理やり取り出すしかない。

 病が進行したとしても、一月先のことより明日のことのほうが大事だ。


(あとは――)

 家を出る前にヴィクトルに相談したほうがいいのではないか、と心の内から声がする。

 そうするべきだ、と声がする。黙って姿を消すのは不義理だと。

 それでも。

 病のことを伝え、錬金術が使えなくなったことを伝えれば、ヴィクトルはどんな顔をするだろうか。


(怖い)

 考えるのが怖い。

 怖いからって逃げるのは子どもだ。それでも。

 きっと失望されるだろう。


 もしかしたら変わらずここに置いてくれるかもしれない。

 だが、同情に縋って生きるのは嫌だ。

(いまの私には何もできない)

 何もできない人間が、彼の行く道の邪魔をしてはいけない。


 ――ふと。

 昔飼っていた猫のことを思い出す。黒猫のグロリアの前、生家の侯爵家に住んでいた時から飼っていた、青い瞳の白い猫。

 錬金術師となって家を出た後もしばらく一緒にいたが、ある日ふと姿を消してしまった。

 後日、猫は寿命が来ると飼い主の前から姿を消して誰も知らないところで息を引き取ると、同僚に教えてもらった。

 あの時はただただ悲しかったが、いまなら気持ちがわかる気がした。


 すべてのことに覚悟を決めて、この部屋での最後の眠りにつく。

 豪華なベッドもこれでもう寝納め。

 淑女教育も婚約者ごっこももう終わり。美味しいご飯も、温泉も。

 心残りがあるとしたらひとつだけ。

(ワルツはきちんと踊ってみたかったな)




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