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2-14 潮騒に消える



 立ち込めた霧が風で晴れるように、ファントムは消えた。

 影も消えた青い空を呆然と見上げる。聞きたいことは山ほどあったが、もう気配すらない。波と風の音だけが静かに流れていた。

「ヴィクトル。そのナイフを預からせてもらってもいいかしら」


 まだぬくもりの残るナイフを受け取る。血に染まった、何の変哲もないナイフ。

(賢者の石の失敗作)

 ファントムの言葉を繰り返す。

 どう見てもただのナイフだが、これがサンドラ夫人を変化のきっかけになったのは間違いない。

 間違っても怪我をしないように、刃を、そして全体を石で覆う。


「賢者の石とはなんなんだ」

 ヴィクトルに問われ、逡巡する。

 答えに迷ったのは、答えたくなかったわけではなく、ノア自身そのものの姿をよくつかめていないからだ。

「錬金術師の見る夢……奇跡を叶える魔法の道具。私は、存在しないものだと思っていた」

 ただの夢物語だと思っていた。


「いまは、存在してはいけないものだと思ってる。ひとつの願いのために、千人の命を犠牲にするようなものだから」

 かつての王国の錬金術師から聞いた話では、国ひとつを犠牲にして賢者の石をつくったという。それが本当でも嘘でも、そんなものと関わりを持ちたくはない。

「だからヴィクトルも夢物語だと思ってて。悪い夢だって」

「……そうか」


 ヴィクトルの胸の内は読めない。

 だから余計なことを考えてしまう。いつか彼が身に余るほどの力を求めたら。

 賢者の石を求めたら。

(私はどうするんだろう)




 大地の振動が伝わってくる。

 遠くに土埃が舞い上がるのが見える。騎馬と馬車の一団が、こちらへ向かってくるようだった。総勢二十人ほど。敵の増員の可能性もあるが、二種類の旗が立てられている見えるからその可能性は低いだろう。片方の旗にはフローゼンの紋章がある。もう片方はおそらくバルクレイ伯爵のもの。


「迎えが来てくれたみたいね。それじゃ、私は隠れておくからあとはよろしく」

「何故だ」

「いやだって、私の正体も、アリオスを出てきていることもニールさんとアニラ以外知らないし。どうやってここに来たのかも説明できない」

 きっとあの一団の中にはヴィクトルの従者のニールも、アリオスの兵も、帝国警察のレジーナもいる。侯爵捜索のためアリオスを出た一団が。


 ノアが錬金術師ということを隠している以上、特に錬金術師を探している警察官のレジーナには言えない以上、ノアはここにいなかったことにして、ヴィクトルが自力で解決したことにするのが得策だ。

 ノアは騒ぎが収束するまで森に隠れておいて、後でひとりでこっそりゴーレムで帰ればいい。そんな完璧な計画を立てていたのだが。

 何故かヴィクトルに腕を捕まれて動けない。


「ヴィクトル……?」

 声が引きつる。

 穏やかな笑みが逆に怖い。


「何を考えてるの」

「私はあなたを日の当たらない場所に置くつもりはない」

「気にしないで。日蔭大好きだから」

 言っているうちに一団が近づいてくる。もう時間がない。無理やり気絶させてしまおうか。


「あー! 侯爵様生きてた! 良かった! え? エレノア様? どうしてここに!」

 聞き覚えのある女性の声が遠くから響く。馬車から身を乗り出して望遠鏡を携えた、赤髪の女性の姿が見えた。

 ノアは静かに目を閉じた。

 ――終わった。




 駆け付けた捜索隊がヴィクトルの無事を喜ぶ様子は、それはもう大変なものだった。

「世話をかけたな」

 その一言でアリオスの人々は人目も憚らず号泣する。大勢の男が揃って泣く光景を、ノアは生まれて初めて見たかもしれない。

 美しい主従関係。それはとても素晴らしい事なのだが、いい加減手を放してくれないだろうか。


「わー、本当にエレノア様じゃないですか。どうやってここに来たんですか。あたしたちより早いなんて」

 共に駆け付けたレジーナが興味津々で聞いてくる。

(ゴーレムに乗って一晩駆けました)

 なんて言えるわけもない。


 もはや何も言えないノアの代わりに、ヴィクトルが腕を持ったまま言った。

「彼女は私の錬金術師だ」

 何の躊躇いもなく堂々と。錬金術師を探している相手に。周りにはアリオスの人々もいるのに。

(平穏な人生さようなら)

 もはや諦めの境地だった。どうにでもなれ。


「あー、そうなんですかなるほど。錬金術師なら余裕ですね。よく知らないけど」

(……ん?)

「他の警察に見つからないようにしといてくださいよ。ややこしいので」

「忠告感謝する」

 レジーナは面倒くさそうに言って、自分の仕事は終わりとばかりにすたすたと乗ってきた馬車の方へ戻っていく。


 状況が理解できず固まっていると、レジーナと入れ替わりにニールがヴィクトルの元へやってきた。

「旦那様、こちらを」

 持ってきていた外套を羽織らせる。

 ようやく解放されたノアは、しかし今更どこに行ったらいいかわからず、風に揺れる外套をぼんやりと眺めた。

(ニールさん準備がいいなぁ)

 さすが昔からの従者。


「旦那様、バルクレイ伯爵がこちらにいらしています」

 そっと伝え、ヴィクトルの背後へ回る。

 すると、線の細い青年が従者と共にヴィクトルのところへやってきた。心労で痩せこけ、いまにも失神しそうなほどの青い顔で。

「フローゼン侯爵……」

 声がひどく弱々しい。


(この人が、バルクレイ伯爵……)

 現当主であり、サンドラ・バルクレイ先代伯爵夫人の息子。

「母が、とんでもないことを……! 貴方を誘拐するなど……なんとお詫びすればいいか……!」

 いまにも命を断ちそうなほどの悲痛な叫びが、潮騒の中に響く。

 伯爵は膝から崩れ落ち、顔を伏せて両手を地面につく。


 ヴィクトルは伯爵の前に膝をつき、その肩を手を触れた。

「夫人は己の不徳を恥じて、海に身を投げられた。残されていたのはこれだけだ」

 青い宝石のブローチを伯爵に見せる。

 サンドラ夫人の胸元についていたブローチを。

(いつの間に回収していたの……)

 おそらく、ナイフを抜いたときに一緒に。


「ああ、これはまさしく……!」

「助けることができず、すまなかった」

 自分が傷つけられた苦痛よりも。

 母を失った伯爵を労る姿は、何も知らない人々にはどう映るのだろうか。


「私はこの件を表沙汰にするつもりはない。バルクレイ伯爵、許してもらえるならばあなたとの友情をこれからも続けていきたいからだ」

「フローゼン侯爵……!」

 伯爵の流す純粋な涙は、喜びによるものか感動によるものか。

 光を受けて輝くそれから、ノアは思わず目を逸らした。



##



 帰りの馬車では、ノアはレジーナと二人きりになった。ノアの膝の上では黒猫が寝ているので、正確には三人か。

 バルクレイの兵は大多数が監獄の後始末のため留まったため、一団の規模は半分ほどになっている。ヴィクトルはニールと共に伯爵の馬車にいる。中でどんな話がされているかは、あまり考えたくない。


「侯爵様は訴えないって本当?」

「はい。そう言っていました」

 何も知らない若き伯爵に恩を売っておくつもりなのだろうけれど。領地が隣接する相手と良好な関係を築くのは間違っていない。

 レジーナは大きなため息をつく。


「はあ、またタダ働き。タダ働きって人生において最も無駄なものよね。魂が腐るわ。穴掘って埋めるだけよりはマシだけど」

「そういうものなのですか? なんの手柄にもならないとか、そんな――」

「貴族同士のトラブルで、被害者に訴える気がなくて容疑者が亡くなった以上、あたしにはどうしようもないわ。下手に調べて消されたくないし」

 物騒なことを言う。


 この時代の貴族もそういうものなのかと思うと、暗い気分になってくる。ノア自身、王国では侯爵家の娘だった。ほとんど勘当状態だったとはいえ。

 いまは庶民ですらない。寄る辺ないただの錬金術師。


「……私を捕まえなくていいんですか?」

「え、なんで? 罪犯したんですか?」

 逆に聞き返されてしまう。

 ――罪。

 昨夜だけで色々と実行したが、どれを罪と判断するのか、それがわかるほどノアはまだこの時代、この国の刑法に詳しくない。


「レジーナ様は錬金術師を探しているんじゃないんですか?」

「あたしが探しているのはファントムって男。他は知らない、関係ない。しかも貴族付きのなんて、怖くて関わっていられないですね」

 きっぱりと言い切る。そして出てきた名前に驚いた。

「ファントムさん、ですか?」

「え? 知ってるの?」


「……昨夜、森の中でファントムと名乗る錬金術師に会いました」

「ええーっ! そうかー、やっぱりこっちにいたか。元気そうだった?」

「はい、とても」

「そう」

 それだけ呟き、レジーナは窓の外に視線を向ける。森の方角を見つめ、黙ってしまった。


 沈黙が訪れ、馬車の走る音だけが車内に響く。

 レジーナの横顔を見て気づいた。ファントムとレジーナの瞳の色が同じ緑なことと、顔立ちがどこか似ていることに。

 もしかしたらふたりは血が繋がっているのかもしれない。


 レジーナは景色を映していた目を閉じ、強く頷く。何かを決意したかのように。

「エレノア様。これ、あげます。プレゼント」

 ベルトの後ろに引っ掛けていたものを、押し付けるように渡してくる。

 金属製の二つの輪が鎖で繋がれた代物を。


「これは?」

「錬金術師殺しの手錠です」

「錬金術師殺し?」

 何とも物騒な響きだ。

「これを嵌めると、錬金術が一切使えなくなるんです」

 一瞬で血の気が引いた。手錠と呼ばれたそれを持つ手が震えた。冷たさが、重さが、一段と強く感じられて。


「……こんなものが」

 こんなものが一般化されているなんて。

 渡された手錠を見つめる。見た目はただの金属製の手枷。普通の錬金術師なら簡単に破壊できるもの。

(おそらく、導力を封じる仕組み……)

 導力がなければ分解も合成も行えない。

 これで手を封じられたら、錬金術師は完全に無力化し、ただの人間になる。


「次にファントム見つけたら、これで捕まえて引っ張ってきてください」

「……わかりました」

 あとで仕組みを研究しようと決めて、ジャケットの内ポケットに入れる。絶対に落とさないように気を付けなければ。

 レジーナとファントムの関係は気になったが、聞くのはやめた。繊細なところに踏み込む勇気はまだない。


 馬車が揺れながらフローゼン領へと進む。

 アリオスにつく頃には真夜中だろうか。

 侯爵邸に帰ったら、温泉に入って、おいしいご飯を食べて、ベッドでゆっくり休みたい。何もかも忘れて眠りたい。

 面倒事を片付けて行くのはそのあと。


「レジーナ様、ボーンファイドって何かご存じですか」

 後回しにしようと思ったが、やはり気になった。サンドラ夫人が正気のときに口にしていた言葉が。

 なんとなくヴィクトルには聞きづらかった言葉を、レジーナに訪ねてみる。


 レジーナは呆れたように肩を竦めた。

「貴女本当に何も知らないんですね」

「はい。お恥ずかしい話ですが」

「とはいえ高位貴族の名前くらい知っていた方がいいですよ」

「高位貴族?」

「そう。灰色の悪魔に一番ケンカを売っていたアホ息子のいる公爵家の家名が、ボーンファイド」



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