2-13 超越者
人が化け物に変わる姿を見たことがあるか。
――なかった。けれど、化け物に変わってしまった後の姿を見たことはある。
そしていま、目の当たりにしている。人が化け物に変わっていく姿を。
常識を超えて。
摂理を超えて。
甲高い咆哮が洞窟内に響く。
身体は約三倍に膨らみ、サンドラ夫人を繋いでいた手枷が軋み、弾けた。
両手が自由になったサンドラ夫人は地面に這いつくばり、顔を上げる。無数の蛇が揺れて、ノアに向けて牙を剥く。
殺気。必ず殺すと目が言っていた。
ヴィクトルが、ファントムに弾かれた剣を拾ってサンドラ夫人に走り寄る。夫人を囲んでいた金色の糸を斬り、鋼の剣閃はその首を刎ねるため理想的な軌跡を描く。だが。
金属同士がぶつかり合う音がして、剣が弾き返される。今度はファントムの金糸の妨害ではない。
首が、落ちない。
皮膚が――いや、身体全体が鋼鉄のような硬さを持っているのが見えた。
サンドラ夫人はヴィクトルを見て、にこりと笑う。慈愛に満ちた聖母の笑み。
そして蛇の髪を振り乱すと、ノアに向けて突進してくる。牛の下半身で力強く地面を蹴って。
ノアはとっさに監獄と洞窟を繋ぐ階段を上った。三分の一ほど上がったところで、衝撃音と共に地面と壁が大きく揺れて足を滑らせかける。
踏ん張って振り返ると、階段のスペースにいっぱいにサンドラ夫人が無理やり挟まっていた。
身体の大きさが邪魔をして階段を上れていない。
その大きな目はノアを見据え。
大きな手はノアを捕らえようともがき。
蛇は噛みつこうと咢を開く。
純粋な敵意。純粋な悪意。消し去るという意思。
(これは、メドゥーサ。神話の時代の怪物が、ここに現出した)
人と思うと手先が鈍る。
自分にそう言い聞かせ、決意を固める。
目を合わせてはいけない。意識を持っていかれる。
ノアは壁に手を突いたまま、周囲の石を変形させた。メドゥーサを取り囲むように天井から、壁から、床から、石の槍を伸ばして、串刺しにしようとする。
しかしそれらはメドゥーサの身体を貫くことは叶わず、弾き返される。鋼鉄ででもできているかのような頑強さ。
更に石の槍を伸ばし、石檻をつくってメドゥーサの身体を取り囲む。
ノアを捕まえようと伸びてくる腕から逃げ、階段を駆け上がる。監獄の施設内に出て、そのまま外へ向かう。
(武器を――何なら効く?)
監獄内に弩弓や攻城兵器でもあればよかったのだが、ここにあるのは拷問道具ぐらいだ。
(――いや、ある)
外に飛び出す。太陽の光が眩しい。
特別牢と繋がる穴の方へ視線を向けると、石が崩れる音と共に内側から這い出てくる手が見えた。
(狙いは、私)
きっと他には目もくれない。
(力が強い、頑丈、意外と身体が軽い)
情報を整理していく。軽々と這い上がってくるのなら落とし穴戦法は難しいかもしれない。海に落とすのも無理筋。
森に放つと他の人々に被害が出るかもしれない。
ここで止めるしかない。
(落とすにしても、動けなくしてから)
メドゥーサを待っている間に、ヴィクトルが海岸の崖の方から上がってくる。階段を塞いでいたので、入り江の方から出て崖を登ってきたらしい。
「ヴィクトル」
顔を見る。
「力を貸して」
「こちらが頼もうと思っていたところだ。槍を」
頷き、近くのひしゃげた鉄柵から槍をつくる。一本では足りない。
十本、二十本。地面に刺さった状態で変化させる。穂先はやや鈍くして代わりに硬度を上げ、返しを付け、柄元にも返しを。
そして穂先に呪素を纏わせる。
呪素は大地に普遍的に存在する、魂を侵食する元素。死をもたらす元素。ノアはそれを見ることができ、操ることができ、武器に付与することもできる。
バキバキと骨が折れるような音を立てて、メドゥーサの巨体が穴から這い上がってくる。
身体の骨を自分で折って、穴を通れるように身体を柔らかくしたのだろう。
ヴィクトルは槍を引き抜き、這い上がったばかりのメドゥーサへ投擲した。
全身を使った鮮やかな動きから放たれた槍は、轟音を上げ一直線にメドゥーサの腕に突き刺さる。硬い皮膚を貫き、串刺しとした。
「さすが」
返しを作ってあるので簡単には抜けないはずだ。予想通り、メドゥーサは槍を腕に刺したまま頭を持ち上げる。
傷の痛みか、呪素に魂を喰われる痛みか、その表情は苦痛と恨みに満ちている。
しかし、倒すには至らない。一瞬流れた血は止まり、肉が盛り上がって傷を塞ぐ。槍を排出せず、刺したまま。
(再生能力が高い。でも)
想定内。
二本目の槍が足に。三本目が首に。
再生すれば再生するほど、中に入り込んだ槍が骨の動きや関節を固定し、動けなくなる寸法だ。
背中に、肩に。
手に。腕に。目に。
的確に、吸い込まれるように。
「…………」
恐ろしいと思った。
メドゥーサがではない。
正確さと速度と威力、すべてが揃っていなければ、槍は突き刺さらずに弾き返されていただろう。
一度の失敗もなく、ほんのわずかな躊躇いさえなく事を成すヴィクトルが、恐ろしくて心強い。
十三本目の槍を手にし、ヴィクトルは動きを止めた。
メドゥーサはもう動けない。全身を槍に貫かれ、固定され、動かすことができない。それでも。それでも、生きている。
残った右目からは涙のような液体が流れ、全身を痙攣させて、それでも。
終幕を許さない存在がメドゥーサの中にある。
「あのナイフ……」
あれが変化のきっかけだった。
ナイフに刺されたサンドラ夫人の身体が変化し、赤黒い液体をかけられた後、まったく別の存在へ――異形への変化が始まった。
目を凝らす。身体は膨張しても、ナイフは刺さったままの場所に残っていた。
あのナイフさえ取り除けば、何かが変わるのではないか。
ヴィクトルが槍を手にしたまま、メドゥーサの元へ歩き始めた。堂々とした足取りで迷いなく進むヴィクトルを、ノアは止めることができなかった。
「サンドラ・バルクレイ先代伯爵夫人」
メドゥーサの身体がぴくぴくと震える。
「御身に触れることをお許しください」
メドゥーサは――サンドラ夫人は、にこりと笑った。慈愛に満ちた聖母のような微笑みで、ヴィクトルを受け入れる。
ヴィクトルは一礼し、槍を地面に突き刺し、サンドラ夫人の肩に刺さっていたナイフを引き抜く。
身体の再生が停止し、体内の呪素が躍動し、全身の傷跡から血が流れ始める。
ヴィクトルは腰の剣を抜き、一振りする。
サンドラ夫人の首が落ちる。大量の血を噴出させ。
転がり落ちた夫人の顔は、愛の喜びに満ちていた。
異形の身体が、崩れていく。
乾いた砂の塊となったかのように、崩れ、砕け、海風に散る。
あとに残ったのは槍の残骸と。
ヴィクトルの手の中のナイフだけだった。
##
乾いた拍手が上から響く。監獄の建物の屋上に、ファントムが座っていた。
「本当に悪魔だな。侯爵様の身体も何か混ざってるんじゃないの」
「かもしれんな」
「おお、侯爵様に認識してもらえているとは身に余る光栄だ」
立ち上がり、暗灰色のマントを広げて一礼する。カーテンコールを迎えた役者のように。
「ファントムさん、どうしてこんなことを」
「裏切りには報いがある。それだけのことだよ」
柔らかい声はとても冷淡だった。
「君たちだって彼女の行いを許せなかったから、あんな場所に捕らえたんだろう?」
立てた人差し指を口元に当てる。
「今回のことは雇い主には黙っていてあげる。治療代の代わりさ。もう少しだけ自由を楽しむといい」
「足りないわ。夫人に何をしたのか教えなさい」
「そこまで知りたがるのは強欲じゃないかな。まあいいや、今回だけは特別」
指先が、ヴィクトルの持つナイフを示す。
「それは賢者の石の失敗作」
「賢者の……石……?」
「もう力を失っているから、記念にあげるよ。それではまた会おう。僕の女神」