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2-12 再び、監獄にて


 バルトゥール監獄の、海に面した特別牢。

 そこは人の手が加えられた、岩場の洞窟だった。昨夜の余波で洞窟は天井まで濡れていて、水滴が滴り落ちてくる。

 潮の匂いが濃い。

 そして、朝だというのに薄暗い。

 上の穴から差し込んでくる光が洞窟内を柔らかに照らし、打ち寄せてくる波の音が反響する。


 上の鉄格子は破壊したままだが、ヴィクトルを助ける際に組んだ足場は解体して元通りにしてある。切断した鎖も、手枷も。

 岩壁に固く打ち付けられたそれは、いまはひとりの貴婦人を囚えていた。

 サンドラ・バルクレイ先代伯爵夫人。


 眠る彼女が生来持っている艶やかさは、憔悴しているのか陰りを帯びている。

 胸元の青い宝石のブローチが、光を受けて輝いていた。

 両手を手枷で拘束され、吊り下げられた格好はよほど不快だったのか、サンドラ夫人はほどなく目を覚ます。


「気分はいかがかな」

 ヴィクトルが少し離れた場所から問いかけると、夫人は歓喜の表情を浮かべた。

「ヴィクトル! ああ、あたくしのヴィクトル! 戻ってきてくれたのね」

 楽観的だ。あんな仕打ちをしていたのに。


「紹介させていただこう。私の婚約者だ」

 積極的に火に油を注ぎにいく。

 夫人の好意を知っての挑発なのだろうが、憎悪を一直線に向けられる方は居心地が悪いにもほどがある。目を合わせれば石にされそうだ。

(巻き込まないで……)

 切実に思う。こういう修羅場は得意ではない。立会人のままでいたい。

「そんな小汚い小娘が……」


 言われた通り、確かに小汚い。

 森の中、洞窟の中、海岸。夜通し行動し続けため、土と汗と潮風で服も髪も肌も薄汚れている。錬金術できれいにすることはできるが、一部ならともかくすべてを身ぎれいにするのはそれなりに時間がかかるため、後回しになっていた。

 この状況下でもドレスも髪も化粧も完璧で、王城の貴婦人のように美しいサンドラ夫人とは比べるべくもない。


「彼女は誰よりも美しい。侮辱はやめていただこうか」

「騙されている……騙されているわ……」

 サンドラ夫人は病的にぶつぶつと呟き続ける。言い続ければそれが事実に変わると信じているかのように。

 その姿を哀れにさえ思った。ヴィクトルへの仕打ちを考えれば許すことはできないが。


 彼女はおそらく昔から美しかった。いまも美しい貴婦人だと思う。だが彼女は妄執に囚われているように見える。美しさへの妄執に。

 きっと、ヴィクトルでなくても良かった。

 美しい自分に見合う、美しい男が身近にいた。だから固執した。

 夫人が愛していたのは自分だけ。


「さて、そろそろ教えていただきたい。あなたは誰の指示で動いたのか」

「何のお話かしら? あたくしは誰の指示も受けていない。あたくしを動かすのは、あなたへの愛だけ」

 サンドラ夫人は優雅に微笑む。いま自分が置かれている状況が見えていないかのように。


 強い風が吹く。

 潮騒が響き、波がサンドラ夫人の足元を濡らす。

「満潮は今日だったか」

 夫人の身体がびくりと震える。

 強張った表情からはもう優雅さは消えていた。

「海の水は存外あたたかいかもしれんぞ」

 ヴィクトルは面白がるように言う。もしかしたら、逆の立場だったときに言われていたことなのかもしれない。


「行こうか」

 ノアに言い、入り江の階段から外に出ようとする。

「待って!」

 呼び止められても振り向きもせず。

「なんでも話すから、これを外して! 置いていかないで頂戴……!」

 必死に訴える声にも足を止めない。


 ヴィクトルはサンドラ夫人の後ろにいるのが誰かは見当がついていると言っていた。それでもあえて尋問するのは、言質が欲しいからか、意趣返しか、反省を促すためか。

(やられっぱなしが性に合わないから、とか)

 気持ちはわからなくともないけれど。


(まあ、これで反省してくれれば、もう同じようなことはしないだろうし)

 どの道、潮が満ちるまでは時間があるし、それまでに狼煙を見た誰かが来るかもしれない。

 ノアもしばらくは外に出ようと、ヴィクトルについていこうとしたその時――

「ボーンファイドよ!」

 ヴィクトルの足が止まる。


 ――ボーンファイド。

 ノアの知らない名前。

 だが、ヴィクトルには馴染みのある名前だったらしい。口元に呆れたような笑みが浮かんでいた。




「ああ、困るなぁ」

 上から声が降ってきた。聞き覚えのある男性の声が。

「鞭のひとつもない内から裏切らないでくださいよ。期待はしていなかったけど悲しいな」

「ファントムさん?」

 暗灰色のマントに身を包んだファントムが、穴の上からこちらを覗いていた。


「あたくしを助けなさい! 早く!」

 ファントムに向けて苛立ちをぶつける。

「裏切ろうとした人を助ける義理ってあるかな? ないよね」

 困ったように笑い、ノアに目を向ける。

 右手の人差指で口を押さえ、左手に持ったナイフを手から滑らせる。

 銀色のナイフは吸い込まれるように、サンドラ夫人の肩に刺さった。


「ぎゃあ!」

 苦痛の悲鳴。だが即死の傷ではない。

 駆け寄ろうとしたノアを、後ろからヴィクトルが引き止める。

「ノア、君はお人好しが過ぎる。まあ僕もそんなところに助けられたんだけど」

 ファントムが呟く。

(そんなに立派なものじゃない)

 治せる怪我が、病気が、目の前にあるから治したくなるだけ。これは業だ。


 しかし、ノアの衝動よりもサンドラ夫人の変化の方がよほど早かった。

 豊かな髪がごっそりと抜け落ち、肌から血色が消え、骨が変形する。身体が膨張し、ドレスが裂け始める。

「うあ……あ、あ……」

 苦しげな呻き声が、どんどん獣じみた野太いものに変わっていく。

(何が――)

 いったい目の前で何が起こっているのか。


 ヴィクトルが剣を抜く。監獄内から回収した長剣で、サンドラ夫人の命を絶とうと。

 しかし上から降ってきた金色の糸が、剣を弾き飛ばした。

「お客様、席を動くのはマナー違反だ」

 金色の糸がサンドラ夫人を囲むように、守るように降り注ぐ。


「さあ、これより上演いたしますのは、ひとりの淑女の物語。社交界の華だった彼女は伯爵夫人となり二人の子どもに恵まれ幸せに暮らしながらも、叶わぬ恋に身を焦がしてしまう」

 朗々とした声が口上を唄う。

「悪魔に魅入られた彼女は、同じく悪魔に身を落としてしまうのか……」


 悪夢のような光景だった。

 牢獄という舞台の中で、囚われた女性の身体が異形のものへと変わっていく。

「さあ……変われ! 摂理を超えたものに!」

 ファントムは高々と唄い、革袋を落とした。袋は落下途中で割れて、赤黒い液体を振り撒いて落ちる。

 潮の匂いの中でも顔を顰めるような、生臭く、腐った匂い。


 液体を受けたサンドラ夫人の身体が変わる。

 髪が、無数の蛇に。

 顔はロウのように白く。

 ドレスに覆われた下半身は牛のように。

 ――メドゥーサ。

 ノアの知る数多の怪物の中から、その名前が浮かんだ。




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