2-10 海沿いの監獄にて
森を走る。作り直したゴーレムに命じて、暗い森の中をひたすらに、海岸に向けて。
冷静に。理性は何度もそう忠告してくるが、逸る心を抑えられない。
(お願い。無事でいて)
不安で胸が押し潰されそうだ。
途中で何度かミノタウロスが出たが、迅速に埋めて事なきを得た。いったい何体つくってあるのか。ファントムがつくったのだとしたら、帰る前に片付けていってほしいものだと思う。
「……はぁ」
ため息をつく。息がうまくできない。
いまのノアにできることは、ゴーレムに身を委ね、力を溜めて、待つことだけ。
黒猫はというとゴーレムの上ですっかり静かに眠っている。
その時、森の匂いの中に、海の匂いが混じった。
潮騒の音が遠くから聞こえてくる。
――近い。
森が途切れ、視界が開け、ノアはゴーレムを止める。海岸線の崖の上で。
(海……)
目の前に広がるのはどこまでも続く大海原。遥か彼方には水平線も見えた。
海を見るのは初めてではない。ないのだが見るたびに、圧倒されるような、懐かしいような感慨を覚える。
最近新調したばかりの望遠鏡を取り出し、周囲の様子を確認する。
どこまでも続く海岸線の途中に、人工的な建造物の影が浮かび上がった。
(あれが、バルトゥール監獄?)
建物の周囲では、人による光がわずかに見えた。
バルトゥール監獄。バルクレイ領の海岸沿いに位置した建物は、地図にはそう書かれている。
近づいて見てみれば、とても古い建物だ。大規模な修繕工事もされていない。捕虜や罪人の収容所と思わしき建物はあるが、いまは使われている気配はない。
建物の周辺は鉄柵で囲まれていた。あちこちに篝火が焚かれ、見張りの兵士もいるが人数は少ない。
(これなら何とかなりそう)
見張りに見つからないように周辺を偵察しながら、判断する。慢心は禁物だが。
確認できる範囲ではキメラの姿もない。
これなら、短時間ならばひとりで制圧できるだろう。
(制圧しなくても、ヴィクトルさえ助け出せればいい)
ゴーレムを作り直す。移動用から石の巨人の姿にして、森の影に待機させる。
(焦るな)
まずはヴィクトルの存在と位置の確認を。
もしかしたらここにはいないかもしれない。それは願望に近い思考だった。
鉄柵の一部に穴を開け、監獄の敷地内に入る。あとで怪しまれないように元通りにして。
光に照らされないように気を付けながら、狭間の闇を縫うように移動する。
そうしている内に、敷地内の一部に鉄柵で大仰に囲われた場所を発見する。辺りにはたくさんの篝火が焚かれ、見張りが四人いた。穴から極力離れた状態で、何かを恐れるように。
いるとしたらあの場所の他にない。
ノアは近くの鉄柵からいったん外へ出た。穴を開けたままにして。
物陰に隠れるようにしゃがみこみ、深く息を吸い、吐く。
(作戦開始)
火を起こす。
偵察時に燃えやすいものが置いてある場所に油を撒いた。
少し離れた場所からそれらの熱を上げ、発火させる。オレンジ色の炎が、木箱や資材を燃やし始めた。
はぜる音、熱、焼け焦げたにおいが漂ってくる。潮風に煽られて、火は予想以上に大きく育っていく。
見張りの兵士たちが慌ただしくなり、消火のために動き始める。兵士たちの動きを確認しながら移動する。
鉄柵で囲われた場所にいた見張りも、様子を見に二人離れた。残るは二人。
「ゴーレムくん!」
森に潜めていたゴーレムを呼ぶ。
見張り二人もノアの声に気づき、確認しようとやってくる。
そのとき、大地が震動した。
呼び寄せたゴーレムは、障害物を薙ぎ倒しながら全力疾走でノアの隣を突っ切り、見張りを跳ね飛ばし、篝火を吹き飛ばし、鉄柵を捻じ曲げる。
その後ノアはゴーレムを消火活動が行われている場に向かわせる。
燃え上がる炎。暴れまわるゴーレム。絶望の悲鳴。
それらすべてに背を向けて、捻じ曲がった鉄柵を乗り越える。柵の内側の岩場はくり抜くように穴が掘られ、その一番深いところには鉄格子が嵌められていた。穴の周囲は打ちあがった海水で濡れていた。
鉄格子の下は黒く深い水が波打ち。
水の中に、人影が見えた。かろうじて呼吸をしている姿で。
「ヴィクトル!」
信じられない気持ちで名前を呼ぶ。
まさか本当にこんなことが。
「しっかりして! いま助けるから!」
鉄格子を掴み、分解する。
まだ新しくしたばかりのようだが、海水で腐食したそれはかんたんに砕け散る。残骸は水の中に落ちて消えていく。
ヴィクトルが溺れないように、穴の中の岩を伸ばして足場を作る。引き上げようとして、両手両足に鎖が付いていることに気づいた。断ち切る。
鎖はある程度の長さがあるようだった。逃げられないように。そしてぎりぎりまでは溺れないように。
(本当に悪趣味!)
怒りを噛みしめながら、手を伸ばす。
足場を補強して落ちないように気を付けて。
水の中から手が伸びる。ノアはそれをしっかりと握りしめた。絶対に離さない。そう強く決意して。
全身の力を使い引っ張って、同時に足場を階段にして穴と繋げて登りやすくして、ヴィクトルの身体を海の中から引き上げる。
ヴィクトルは咳き込み、海水を吐き出した。
冷え切った、氷のような身体を抱きしめる。
胸に顔を当てる。息はある。脈も。
ひどく衰弱している。でも生きている。
服はボロボロで身体は傷だらけ。おそらく鞭で打たれた痕だ。殺すためではなく、苦しめるためにつけられた傷。
「ノア……」
細い声。いつもと違う、いまにも消え入りそうな。
一刻も早く治療をしなければ。
まずは濡れた服を乾かして、身体を温めて、怪我の治療を――
ひとまず、服の水分を分解して濡れた身体を乾かす。あとは落ち着いた場所に行ってからだ。
ヴィクトルに肩を貸して、監獄の敷地内から出る。森へ身を隠すと同時にゴーレムも崩した。火もほどなく鎮火するだろう。
怪我人はいるようだが、重傷者や死亡者はいない。
追手が来る前に隠れようとした時、外から馬車がやってくるのが見えた。
見覚えのある、豪華な馬車だった。
「なぁにこれは? 火事? 早くなんとかしなさいな」
降り立った貴婦人はよく通る声で言い、軽い足取りでヴィクトルが捕らえられていた穴の方へ歩いていく。いそいそと楽しげに。
「ふふ、侯爵様もそろそろ反省してくれたかしら。まったくあの方も王国の錬金術師なんて、そんないるはずもないようなものを調べてどうするのかしら。ああ、おかわいそうな侯爵様」
跳ねるような足取りは、特別牢周辺の凄惨な状況を見てぴたりと止まった。
「いやぁぁ! あたくしのヴィクトルー!」
サンドラ・バルクレイ先代伯爵夫人は、ふらりと、まるで糸が切れたかのように優雅に倒れた。