2-9 ファントム
静かだ。
揺らめく光と闇。ファントムの気配は消えている。だが近くにいるのだろう。暗闇からノアを窺っている。
これは罠だ。周到に張られた罠。
この場所、この光。ファントムにとって優位な条件が整えられていると考えて間違いない。
正面突破か。
特性を分析し、利用するか。
いっそ無視して逃げるか。
「…………」
相手の術中にいるのは愉快ではないが、せっかくの手がかりだ。逃がす手はない。
(冷静に)
取り乱したら負ける。
――森を燃やそうか。
場所の問題と光と小細工をまとめて解決できる。しかし延焼したら大事だ。森一帯が火事になればアリオスへの影響も出かねない。
幸いなことは、向こうもこちらを警戒していることだ。唯一の違いは向こうには時間があって、ノアには悠長にしている時間などないこと。
歩く。
三歩、歩いて止まる。また歩く。
意味はない行動。なんとなく立ち止まっていたくないだけの。
ゴーレムを解除する。
ガラガラと音を立てて石が崩れる。
音の間隙を縫うように、ファントムが動いた。
糸。導力の糸が、闇と光の間を潜り抜け、金色の軌跡を描いて伸びてくる。木の上、三方向からわずかにタイミングをずらして。
(導力の扱いに慣れてる)
神経を研ぎ澄ませ、集中して見る。触れるギリギリのところまで見て、避けようとして、気が変わった。
導力を手にまとわせ、糸をつかむ。
一本目をつかんだまま、二本目も。身体を反転させ、逆の手で最後の一本を。
糸に自分の導力を流し込む。糸を辿り、遡り、本体へと力を流し込む。
二本は途中で切られた。最後の一本も、寸前のところで離される。
(逃がさない)
導力をさらに伸ばし、ファントムに触れる。同時に用意していた特製の縄を投げ、導力の道を辿らせて、腕に巻きつかせる。
引っ張り合いの力比べは分が悪い。ノアは縄を体に巻き付け、背筋を強化し、ほんの一瞬だけ思いっきり引っ張った。
不安定な木の上と、安定感抜群の地面の上。力のかかり具合が違う。
ファントムのバランスを崩して、木の上から引きずり落とす。
ガサガサッと枝が揺れたかと思うと、短い悲鳴と共に人が落ちてきた。
「抵抗しないで。戦いは苦手なの」
「冗談」
「人間相手は特に」
「ちょ、待って、怖。苦手って力加減がわからないとかそういうこと!?」
形勢は有利だと思われるが油断はできない。
錬金術師同士で戦ったことはほとんどないが、気をつけるべきことは知っている。
視界を奪われないこと。
導力を使う錬金術は、見て、狙いを澄まして、ターゲットをつかまなければ、構造を見て分解することも、合成も行えない。
ノアはファントムの導力を辿って、手の先からファントムの体内に侵入する。
全身に張り巡らされている回路、神経を把握し、制圧。視覚を遮断。
「目が……っ」
ファントムの視界が真の闇に閉ざされたはずだ。
「安心して。一時的なことよ。すぐに戻せる」
「……ハ、ハハッ……それはどうも」
乾いた笑い声を零し、ぐったりとうなだれる。もう抵抗の意思はなさそうに見えるが、油断はしない。
「肺の病気は早めに治した方がいいわ。息、苦しいでしょ」
「そこまで気づくのか……残念ながらこの病気を治せる医者も錬金術師も存在しないんだ。トルネリアの呪いは――」
「そう」
ノアはファントムの肺にある呪素を取り除いた。肺にまとわりついているのを剥がし、まとめて、気管を通して口から出す。
ファントムが吐き出した黒いブヨブヨとした塊は、そのまま地面に溶けていく。
「楽になった?」
「あーもー! 王国の錬金術師ってやつはさぁ!」
自暴自棄になったように叫ぶ。元気そうだ。
ファントムは諦めたように地面に仰向けに寝転んだ。
病気の正体をもう少し詳しく調べたいところだったが、いまはそんな時間はない。
「治療代を払ってもらうわよ。フローゼン侯爵の居場所はどこ?」
「……海沿いにある監獄は知っているかい? あそこの特別牢は、海に面した洞窟でね。満潮になると、完全に水没するんだ」
「…………」
まったく予想していなかった話に、言葉を失う。
ヴィクトルは貴族、侯爵だ。捕らえられていたとしても、それなりの待遇は受けていると思っていた。思っていたかった。
「満潮は今日だったかな、明日だったかな。あまりに環境が悪くて、たいていの人間は満潮を迎える前に死ぬらしいけれど」
「中に入る方法は?」
「潮が満ちると洞窟側から入るのは難しい。だが、実は上にも出口はある。鉄格子が嵌められているけれどね」
楽しそうに笑い出す。
「わかるかい? 受難者は、空を見ながら、すぐそこの空気を求めながら、海で溺れて死ぬんだよ!」
「悪趣味の極みね」
ファントムの拘束を完全に外す。身体の中に張り巡らせていた導力も。
ファントムは驚いたように何度も目を瞬かせた。
「あっ? 見える……」
「それじゃあ」
ファントムに背を向ける。
また今度、とは言わない。次会うときも多分敵同士だ。ならば会いたくない。
立場が違っていたら、錬金術談義に花を咲かせていたかもしれないけれど。
「待って。行かない方がいい。これは心からの忠告だ。君はこのままどこかに消えて、静かに暮らした方が幸せになれる」
気遣われているのはわかった。
そうやって引きこもって過ごせれば、きっと平穏な時間を過ごせるだろう。平穏平凡な人生。上々ではないか。
「お大事に」