2-4 ひとときの別れ
あの後、公務の邪魔ということで、ノアはレジーナと一緒に仲良く執務室を追い出された。
レジーナは客室に案内されていき、ノアは住み慣れた部屋で休憩することにした。なんだかとても疲れた。
部屋に戻り、机の上に置いたままにしていた一冊の本を手に取り、椅子に座る。
帝国語で書かれた子ども向けの本だ。
ここはかつて王国の土地だったこともあって王国語が通じるが、帝国語は微妙に違う。だから勉強が必要だった。読み書きは少しずつ慣れてきたが、話し言葉は独学では難しい。
言葉の勉強、歴史の勉強、地理の勉強、社会情勢の勉強。三百年を追いつくのは大変だ。家庭教師が欲しいと心底思った。
夕食会の後、ノアはヴィクトルの書斎を訪れることにした。夕食会はレジーナも一緒だったので話らしい話ができなかった。
ノックして書斎に入ると、ヴィクトルはやわらかい微笑みで迎えてくれた。
仕事用の立派な机の上には、地図が広げられている。地図を見ながら何やら思案していたらしい。
外で会う時はいつ仕事をしているのかと心配になったが、家にいるといつ休んでいるのかと心配になる。
ドアを閉め、奥には行かず、入口のところで話しかける。
「話ってなに?」
前置きもなく単刀直入に聞いてみる。ヴィクトルは笑みを深めるだけだった。
「何か飲まないか」
書斎には高そうな酒とグラスがいくつか置いてある。
それらを見ると、記憶はないけれど以前酒で失敗したかのような、甘くて苦い胸騒ぎが起きる。
「ありがとう。でも、やめておく」
ヴィクトルの見ていた地図を見るために、部屋の奥に進む。
隣に立って、地図を見下ろす。帝国の、そしてその周辺の国の形が描かれていた。
フローゼン領から帝都は遠い。そして世界は、ノアの知っているそれより遥かに大きい。
地図を見るたびに思う。自分の知っていた世界が驚くほど小さなことを。
「明日から三日ほど出かけてくる」
「どこへ?」
「バルクレイ伯爵のところだ」
指先が、地図の上のバルクレイ伯爵領の街を示す。
地図の上では、近い。
「今日来ていた夫人のところよね」
「彼女は先代伯爵夫人だ。先代伯爵は先日亡くなられ、いまは子息が爵位を継いでいる」
つまり未亡人。
未亡人なら、倫理的には問題ない。
「そう。ごゆっくり」
「……何か誤解をしていないか。私と夫人とは何もない」
(ヴィクトルはそう思っていても、相手はどうかしら)
目が合ったとき初対面にも関わらず、憎々しいものを見るような顔で睨まれた。
思い出すだけで怖いので、このことはあまり考えたくはない。
「話ってその事?」
「いいや、婚約の件の方だ」
いままでより強い口調で言われる。
「帝都に婚約者役で同行しろって話? まだ諦めてなかったの?」
「諦める? 私があなたを諦めることなど、あるはずがない」
目を見て言い切られる。
――困った。
本気で困ってしまった。
婚約者役以外なら荷物持ちでもなんでもするが、こればかりは承諾しにくい。なんとか考え直してもらえないだろうか。
侯爵の婚約者役として帝都に行けば、社交はきっと避けられない。帝国語も話せないノアが、うまくこなせるとは到底思えない。社交が失敗して一番困るのはノアではないのだが、本当にわかっているのだろうか。
それでも熱望してくるのは、傍に置く婚約者役として都合がいいからだろうが。
それでもやはり『結婚はしない婚約者』になるのは、抵抗感がある。昔、一度婚約破棄をされた身としては。
ノアは悩んだ末、自分の中に妥協案を見つけた。
「……ヴィクトル、お願いがあるんだけれど」
「どうした」
「帝国の言葉、歴史、マナー、あと社交界のこととか。もっとちゃんと勉強したいの。そういう事を教えてくれる、家庭教師みたいな人を紹介してもらうことってできるかしら」
「そうか、それは配慮が足りなかったな」
どこか嬉しそうに微笑む。
ノアが前向きに考え始めたと思っているのかもしれない。
逆だ。
これでまったく成果が出なかった場合、とても婚約者役など重要な役割を任せられないと目を覚ましてくれれば、こんな馬鹿げた話は流れるだろう。
それでも流れなければ、その時はもう割り切って演じ切ってみせる。失敗しようとも。
これは賭けだ。
「教師代は報酬から差し引いておいて。あと、旧王都に常駐医を、交代制で派遣してほしいの。割と怪我人が出るから」
「すぐに手配しよう」
「あとその……私はそろそろ身を引こうと思うから、ちゃんとした責任者を置いてあげて」
寂しいけれど。
机上の地図に背を向け、机の縁に体重を預ける。
「あなたはよくやってくれた。どれだけ感謝をしても足りない」
「うん、ありがとう」
やさしい声に少し泣きそうになる。
「これからも力を貸してほしい」
「こちらこそ」
顔を上げると目が合う。吸い込まれそうなほど青く、透き通った瞳。
思わず目をそらし、自分の腕をぎゅっと握る。
この男は危険だ。傍にいたら、その手を取ったら、二度と離れられなくなってしまいそうで。
距離を。そう距離感を大切にしなければ。
気を取り直して、ヴィクトルと向き合い直す。
「あと、錬金術を使わずに作れる薬で、量産したいものがあるんだけど、できたら販売しながら広めていきたいの。でもどうやって売っていったらいいのかわからなくて。相談に乗ってくれる人っているかしら」
「それならば、ちゃんと事業にしたほうがいい。私も出資しよう」
話が早すぎる。
「まだ具体的な話を何もしてないのだけど」
「あなたが作るものに間違いはない」
言いながら、身体を反転させて机の縁に座り、ノアの顔を覗き込んでくる。
全面的に信頼されるのは、嬉しい反面少し怖い。ノアにできるのは、少しでも品質のいいものをつくること、それだけなのだが。
「それで、どんな薬を?」
「いまレシピができているのは、熱を下げる薬と、腹痛用の薬と、痛み止めと、滋養強壮のお薬。後は二日酔いの薬とか。自分の身体でも試しているし、調査隊の皆にも成り行きで使ってもらったけれど、いまのところ好評よ」
「なるほど。それはいずれ領を代表する輸出品になるかもしれないな」
「そんな大げさな」
誰かの役に立って、ほんの少し懐が潤って、また別の薬をつくる資金にできたら、ノアはそれで満足だ。
「荷が小さく軽くて輸送がしやすく、付加価値が高く、消耗品というところが理想的だ。効果が高ければ自然と広まっていき需要も伸びるだろう。期待しているぞ」
「がんばります……」
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翌日。
早朝から出発する侯爵一行の姿を、ノアは玄関ホールから見つめていた。
同行するのは従者のニールと護衛兵五名。大所帯に感じたが、おそらくこれが普通なのだろう。
(なんだろう……)
まだ薄暗い空を見ていると、言葉にならない不安が湧いてくる。
ヴィクトルは強い。ノアの知っている、この時代の人間の中で一番。キメラだって撃ち落とす。
ニールも強い。護衛兵も侯爵に同行するのだから精鋭が揃っているはず。
それなのに何に不安を抱く必要があるのか。
――一瞬、旧王都の地下にあった石の玉座が思い出された。
「ヴィクトル、これを預かってて」
持ってきたとはいえ渡すのを迷ってずっと握っていたそれを、ヴィクトルに手渡す。
小さなルビーがついた、イヤリングの片方だ。
「無事帰ってこられるように、おまじない」
遠くへ出かける者に愛用しているものを貸す、古いおまじない。
大げさだと、きっと笑うだろうけれど。
ヴィクトルは手のひらのそれを見つめ、握りしめた。
「ああ。必ず無事に戻ってこよう」
「うん。いってらっしゃい」