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1-22 白の錬金術師


 城郭都市アリオスの、フローゼン侯爵邸。

 結局いつもここに帰ってきている。貸してもらっている客間も、どんどん自分の部屋のようになってきた。

 浴室で汗を流し、本日も絶品だった夕食会を過ごした後、ノアは部屋で王都の調査の記録を残そうとした。

 しかし机に向かってペンを握ったまま、何も書けずに無為の時間を過ごしていた。


 ため息をつき、ペンを下ろす。

 ポーチの亜空間の中から日記帳を取り出す。幅がぎりぎりなため、少し取り出すのに苦労した。

 錬金術師の庭の隠し部屋で拾った、血で汚れた日記。

 表紙を撫でる。ざらりとした感触が、魂の表面までも撫でていく。


「……いっそすべてを忘れて遠くへ逃げた方が楽かもね」

 ノアが本気になれば、きっと何者からも逃げ切れる。逃げて、隠れて、生きる。

 しかし自分自身から逃げ出すことはできない。どんなに遠くへ逃げても、一歩も前に進めないのだ。決着をつけない限り。




 ひやりと、部屋の温度が下がる。

「黒の頭の中は、訳のわからない言葉ばかりですわね」

「グロリアとは専門が違うもの。美容と医療系、似ているけれど全然違う」

 耳元で響く甘い声に、視線も向けずに答える。

 神出鬼没な幽霊はいつも突然現れる。時間も場所も関係なく。しかし三回目ともなるともう慣れた。

 グロリアの黒い髪が視界の端で揺れていた。


「あと、人の頭の中を勝手に探らない」

「ちょっと、危ないもの出さないでくださる」

 呪素を帯びさせた黒いナイフをちらつかせると、さすがに声色が変わる。呪素は、魂のみとなったグロリアを傷つけられる唯一のものだ。


「仕方ないでしょう。見えるんですもの。あなたの思考も感情も。この身体は感受性が高いからかしら」

「…………」

「わかったわよ! 黒のことは見ないようにするわ。でも、強い気持ちは勝手に伝わってきますから」


 怒るグロリアに見せるようにナイフを仕舞い、顔を上げる。

 金色の瞳が、整った唇がにこりと笑う。細い指がノアの手に伸びてきて、日記のなぞった。

「あら、ハルの日記じゃない」

「…………」

「あの子はあなたにどんな希望を託したのかしら?」

 月のような瞳がノアの心を覗き込もうとする。面白がる声が、神経を撫でてくる。

「ふふ、怖い顔だこと」


 ここに書かれていたのは、グロリアも知っているであろうことばかりだ。

 王が狂っていき、戦争を引き起こしたこと。

 隠し部屋の標本の意味。

 そして、黒のエレノアールへのメッセージ。


「……グロリア。眠れないから何か話をして」

「なぁに、子どもみたいに」

 グロリアはくすくす笑いながら、部屋の中を自由に飛び回り、窓辺に浮かぶ。

「それではご期待に答えて昔話をひとつ」

 黒い髪が、赤い月明かりの中で揺れていた。




「泉の国をご存じかしら? 小さいけれど、とてもきれいな国でしたわ」

 知識としては知っている。王国の西にある島国だ。

 グロリアは優雅な微笑みをたたえ、窓辺に腰を下ろす。

「わたくしは王女だったの。同盟の証として、王国に第三王妃として嫁いできたのよ。王は最後まで、わたくしに指一本たりとも触れてはくださらなかったけれど」


 グロリアがここで言う王とは、アレクシスの父のことだ。

 先王にはノアもよく可愛がってもらっていた。温和で優しい王だった。王としては優しすぎるくらいの。アレクシスとの婚約が破棄された後も、心配して気遣ってくれていた。


「わたくし、寂しくて。とても寂しくて。……でも王国は素晴らしいところだったわ。だって錬金術があったのですもの!」

 ――錬金術。

 ノアも魅了されたこの力は、王国建国時から存在していたという。王国の秘中の秘として、才能ある者だけが師から直伝され、継承し続けてきた。

「そうしてわたくしはいつしか白のグロリアと呼ばれるようになっていた」


 グロリアは窓から夜の空を見上げる。

 昔よりも赤くなった月を見つめるその姿は、一枚の絵画のように完成された美しさだった。

「初めて黒のと出会ったのは王の御部屋の片隅でしたわね。あの頃の黒のは本当に不愛想でかわいらしかったわ」


 第三王妃と初めて目が合ったのは、先王の死の床だった。その頃にはノアもすでに錬金術師として師について学んでいた。

 衰弱する先王を、師とともに診た。長年に渡って毒に侵された身体はすでに助けられる状況ではなかった。

 優しすぎた先王は錬金術師に身体を診せたことを隠した。王を助けられなかったことが教会側に知られれば、錬金術師の立場が悪くなるのは明白だったからだ。

 それは優しさなのだろうか。


「……あの頃のあなたは無意識の幽体離脱を繰り返していたから、危なっかしいなと思っていたわ」

 初めて目が合った時、グロリアは魂のみの存在だった。

 錬金術師の庭で会うようになったときは生身の状態がほとんどだったが。

「まさか本当に身体を捨ててしまうなんて」


「だって、美しいと言ってくださったから」

 少女のように微笑む。

 グロリアは、本人が望んだとおりに、西海の黒真珠のような艶やかな美しさを永遠のものにした。

「美しくなくなるなんて耐えられないの」

 恋をする少女の表情は、気高き貴人の笑みに変化する。


 金色の瞳がノアを見つめる。

「ねえ、黒のエレノアール。あなたがいなくなってからの戦争のことはもう知っているのかしら?」

「ええ」

 ヴィクトルから歴史を聞いた。壊れた王都を見た。戦争の中で綴られた日記を読んだ。

「王国は強かったわ。だって錬金術があったのですもの。敵なんていなかった」

 心を躍らせる子どものような表情は、復讐を誓う王女のものへと変化する。

「でもね、わたくしの祖国の民は、戦争のさなかに賢者の石の材料にされてしまったの。そう、何万人も」


 言葉を失った。

 グロリアの様子は、とても嘘を言っているようには見えない。

 泉の国は同盟国だったはずだ。グロリアが王国にいたことがその証だ。

 敵国に対する仕打ちなら、まだ何とか理解できる。しかし同盟国に対するその仕打ちは、理解の範疇を超えていた。その行為は邪悪以外の何物でもない。


 賢者の石――無尽蔵の力を生む、錬金術の到達点のひとつ。

 無から有は生まれない。

 無尽蔵の力を生み出す賢者の石をつくるのには、等しい量の力が――……


「わたくしとても悲しくて、悔しくて。だから、賢者の石を壊してしまいましたの」

「……壊せるものなの?」

 錬金術の悲願を。

 国の民の犠牲を。

「ええ、そうよ。賢者の石はこの世にはもうない。だから大丈夫ですわよ、エレノア」

 慈愛に満ちた笑みを浮かべ、グロリアはふわりと飛んでノアに抱きつく。

 錬金術師の庭にいた時に呼ばれていた愛称を、耳元で囁く。


「わたくしもあなたに希望を託しましょう。どうかこの闇を晴らしてちょうだい」

 鈴を鳴らす音がして、白いドレスの幽霊が消える。ノアは残響の中、グロリアの幻影をずっと眺めていた。




 椅子から立ち上がり、ふらふらとおぼつかない足取りでベッドに辿り着き、倒れる。

「重い」

 身体が重い。心が重い。託された希望が重い。

 いっそすべてを忘れて遠くへ逃げてしまいたい。

 寝返りをうち、天井を見上げる。

 もう一度寝返りを打ち、枕を抱え顔を押し当てる。


 叫んだ。

 声を漏らさないように。

 叫んだ。

 嗚咽に似たものが時折、喉の奥を引っ掻く。

 理不尽への怒りを。苦しさを。やるせなさを。

 すべてを吐き出すように、叫んだ。


「…………」

 顔を上げる。いつの間にか涙が溢れていた。そのおかげか、腹の底で渦を巻いていた混沌は静まっていた。

「はぁ……やるしかないか」

 ベッドから起き上がり、部屋の外へ向かう。

 途中の机のところでペンを取り、紙にさらさらと走り書きを残す。


 ――正体不明のキメラを確認。位置は丘の上、城周辺。この対処は急務。


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