1-EX グロリアは猫である
グロリアは猫である。いや、本当は猫ではないが猫にされてしまった。
そして意外とこの生活は苦ではない。
滅びた王都を四本の足で歩きながら思う。この身体は精神体と比べれば当然重いが、器に入っているにしては軽い。意思の疎通などできず導力も使えないが、他には特に制約もない。精神体として漂っていたころと大きな違いはない。
「お前、いい加減ノア様のことは諦めろって」
滅びた王都はエレノアールが帰還し空が青くなって以降、人の訪れが増えている。主にアリオスの方から派遣されてきた調査員だが、いまにも倒壊しそうな危険な箇所が多く、肉体労働が主になるため、構成員は概ね若い男だ。
男たちの会話を聞く。グロリアは人間というものが好きだった。その感情から生み出される喜劇や悲劇が大好物だった。もちろん噂話もである。
休憩中の男たちは、何やらエレノアールのことで盛り上がっている。
ノアは――エレノアは――エレノアールは――黒の錬金術師は――名前だけはやたらと多い女は。
男から向けられる感情が、好意か悪意か気づかない。
気づかないまま、にこっと笑う。
これで大抵の男は勘違いするのだが本人にその気は一切ない。
少女のときに好きな相手――王子から婚約破棄されて双子の妹に乗り換えられているので、男に頼る気も、男で遊ぶ気も一切ない。
笑うのは、話を終わらせるための処世術、あるいは患者を安心させるための無意識の行動で、無意識だからまたタチが悪い。
それでも昔と比べれば随分愛想が良くなったものだが。
美しさと愛らしさで民から絶大な人気を得ていた王妃と、まったく同じ顔をしていた双子の姉は、錬金術以外のことには無関心で無愛想で、付き合いも悪くて。しかしそれがまた一部のオトコゴコロに刺さるらしく、哀れな犠牲者が後を立たなかった。
――懐かしい。
――あんな女のどこがいいのだか。
「俺は純粋に、ノア様を支えたいんだ」
――嗚呼。犠牲者がまたひとり。
エレノアールがこの地の領主であり偉大なる陛下の血を引くヴィクトル・フローゼンに求婚されていることを知らないのだ。
嘘の婚約者に、という話だったが、それこそ嘘だ。ただの口実。
下手な口実で己の本心を誤魔化している。
(本当にあの陛下の子孫なのかしら)
エレノアールはもちろん気づいていないが。本気で戦略、あるいは政略のための婚約だと思っているだろう。そして嫌がっている。だがいずれ丸め込まれそうである。人間は孤独に弱い。グロリアはそれをよく知っている。
そしてあの手の男は執着心が強く、本気で欲しいものはどんな手を使っても手に入れようとする。
エレノアールは錬金術師としても優秀だ。錬金術師がほとんどいなくなってしまったいま、エレノアールは巨万の富を生み出すだろうし、強力な軍事力にもなる。
領地を、民を守るために使えるものは何でも使う――そうして得た大義名分で、エレノアールをゆっくりじわじわと篭絡しようとするだろう。
以前のグロリアならば、男たちの心にこっそりと囁きかけて遊ぶのに。
色恋沙汰、痴情のもつれ、刃傷沙汰。これほど楽しい見世物はない。だが猫の器に入ったいまではそんな遊びもできはしない。
――つまらない。
鬱憤を抱えながら王都の散策に戻る。高位精神体の時から何度も何度も――三百年間見てきた場所だ。目を瞑っていても歩ける。石のひとつ、砂の一粒さえ愛しい場所だ。
グロリアは城まで歩いていく。
高台には、滅びた王都を眺めている金髪の錬金術師の姿があった。
「あ、グロリア」
エレノアールはグロリアに気づいて視線を一瞬だけ向け、また元の姿勢に戻る。憂いを帯びた表情で、ただ滅びた都を眺める。どれだけ見ても何も変わりはしないのに。いままでと同じように、新しい時間の波に飲み込まれて、古きものは消えゆくだけだ。
グロリアはいまのエレノアールのことを「本物のバカ」と評していた。自分を殺そうとした相手をこうして生かしているのだ。猫の器に入れてとはいえ。
(この子も壊れてるわよね)
哀れで滑稽だと思う。
エレノアールはなんだかんだで人間が好きな、寂しがりやだ。人の輪の中には入らずに、輪を眺めている位置を好む、そんな人間だ。
グロリアを生かしているのも、そういう甘さだ。かつての知り合いを失いたくないという甘ったれた思考。おそらく、その甘さから自分が死んでも構わないと思っている。己の命に執着がない。
グロリアはそんな人間が大嫌いだ。人間はもっと欲深くあるべき。生き汚くあるべき。清廉潔白な人間など無味無臭過ぎて面白みがない。
――もっと何かに執着させたい。それを壊してしまいたい。その時どんな表情を見せるのか、考えるだけでぞくぞくする。
「ノア」
男の声がして、エレノアールが顔を上げる。グロリアもまったく気配を感じなかった場所に、銀髪青眼の長身の貴公子――ヴィクトル・フローゼン侯爵が立っていた。
「また来たの……」
エレノアールはうんざりしたような表情で言う。
「視察だ」
「毎日どころか日に何回も視察にくる必要はあるの?」
「勿論」
グロリアが甘えたように若い侯爵の足元にすり寄れば、侯爵はグロリアを抱き上げる。近くで見る整った顔は陛下の面影があり、グロリアはうっとりとそれに見とれた。
――嗚呼。自分のものにしたい。そうすればエレノアールはどんな顔をするだろう。猫の身体がもどかしい。
――嗚呼。それにしてもこの匂いは嫌だ。混ざりものの匂いがする。グロリアの大嫌いな匂いだ。あの古の生き物の匂い。嫌だ嫌だ。どこで混ざってしまったのだろう。忌まわしい。
グロリアが唸って身を捩ると侯爵は手を放す。
「……毎日の視察は部下に任せて、報告を聞いて判断するのがあなたの仕事じゃないの?」
「あなたの顔を見て、直接聞きたい」
「新しく報告することはありません。以上」
エレノアールは事務的に言って侯爵に背を向けて歩いていく。侯爵はまるでその背を守るように、後ろを歩いていく。楽しそうに。
――あんな女のどこがいいのだか。
グロリアは反対側に歩きだした。色恋沙汰は好きだが、個人的に嫌いな女が、個人的に好ましい男に追いかけ回されているのを見るのは業腹だ。
そしてグロリアは今日も城の地下へと降りていく。愛する陛下の面影を探して。
そしてグロリアは、この日、地下の玉座にて、最愛の主君と再会を果たす――……






