7-28EP3 錬金術師は引きこもりたい
帝都の災厄から三年後。
「奥様、朝ですよー。朝が来ましたよ」
メイドのアニラの声に起こされて、ノアはフローゼン領侯爵邸の女主人の部屋で目を覚ます。
室内はまだカーテンが引かれたままで薄暗い。
ノアは寝台に突っ伏したまま、アニラへ懇願した。
「お願いもう少し寝かせて……明け方まで手術していて……」
「それはわかっていますが、今日は旦那様が戻られる日ですよ」
それはわかっている。だが眠い。
侯爵邸の主であるヴィクトルは、皇帝即位から三年たったいまも基本的に帝都で過ごしている。新皇帝の補佐は貴族と優秀な官僚たちがいるが、イヴァン皇帝がヴィクトルを重用して離さないためだ。
侯爵夫人であるノアは、アリオスに戻って錬金術に没頭している。
あまりにも帝都の社交界に出ないから、侯爵が溺愛する余り誰にも見せたくないため隠している、とまで言われているらしいが、実態は引きこもり侯爵夫人である。
そしてノアはこの状態をとても気に入っていた。好きに研究して好きに料理をしたり好きに生き、たまに領主夫人として仕事をする生活は、とても気楽でやりがいがあって大変良かった。
時折ほんの少しだけ寂しくはあったが、ヴィクトルはヴィクトルで帝都で大変な仕事をしていると思うと応援するしかない。
それに、会えない時間がある分、会えた時の喜びは大きい。
そしてこの三年間で、蒸気機関の研究者やフェリクといっしょに、帝都からアリオスまで敷いた鉄道馬車用の鉄道に、念願の蒸気機関車を走らせるまでに至った。これは国家事業として進められたため、各領地の領主との折衝やら燃料の調達やら何やらは皇帝とヴィクトルに任せ、ノアは思う存分鉄道の敷設や車体の製造に力を入れることができた。
トルネリアと共に研究しているホムンクルスの義手義足技術もかなり進展している。成長する義手の完成も近い。そうなればナギや他の患者への負担もかなり軽くなるだろう。
ナギはいま、ノアの弟子みたいな存在になっている。錬金術師としての才能があったようで、細かい作業が得意で頼もしい。
錬金術はきっと消えていくだろうが、その知識はきっと新たな時代の礎となっていくだろう。
「帰ってきたら起きるから、もう少しだけ……」
これは起きないとみると、アニラは諦めて部屋を出ていく。
アニラには申し訳ないが、いまはとにかく少しでも眠っていたい。
静けさの中でわずかなまどろみに浸った後、深い眠りに落ちる。
控えめなノックの音と、扉が開く音で目が覚めたのは、それからさほど時間が経たないうちにのことだった。
ふわりと。
甘く爽やかな、果実のような香りがした。
心が落ち着くはずの香りに胸が弾んで飛び起きる。
「おかえりなさい」
目が覚めて一番に見えたのは、小さな白い花を束ねた花束をテーブルに置いているヴィクトルの姿だった。
「ああ、そのままでいい。起こしてすまない」
「ううん、会いたかった」
起き上がって寝台から降りようとするが、ヴィクトルがノアの元まで来る方がよほど早かった。
見つめ合い、顔が近づき、いつものように再会のキスをする。
帝都からアリオスまでは蒸気機関車で丸一日。
ヴィクトルは七日前にも帰ってきて、またすぐ翌日には帝都に戻っている。蒸気機関車を一番活用しているのは間違いなくこの侯爵だろう。
ヴィクトルは他領や諸外国との貿易で富を築いたり、蒸気機関車が完成した翌年には蒸気船を建造して海軍を創設し、帝国の発展に尽力しているため非常に多忙だ。
多忙を極める侯爵が頻繁に領地に戻る理由をノアは聞かない。家に帰る理由も家族に会う理由も必要ない。家族なのだから。
「今回はいつまでいられるの」
「明後日には発つ」
早い。
いったい何をしに帰ってきたのだろう。聞かないが、顔に出てしまったのか、ヴィクトルは困ったように笑った。
「今日のご予定は?」
頬に触れながら訪ねる。
「このまま休暇だ」
「よかった」
ノアは喜んで笑って、寝台の上で後方に下がる。
とんとんと、先ほどまで自分がいた場所を叩く。
ヴィクトルは少しだけ困ったように、だが嬉しそうに笑って上着を脱ぎ、靴を脱いでノアの示した場所に隣に横たわった。
広げられた腕の中に飛び込んで、胸に顔をうずめ、腰に手を回す。
抱きしめ返されると、胸がぎゅっとした。
落ち着く花の香りと愛する人のにおいが混ざり、幸せな気持ちに満たされる。
「ねえヴィクトル、次はいっしょに行ってもいい?」
いましている研究はいったん落ち着いた。久しぶりに蒸気機関車に乗りたかった。帝都に行きたかった。そして何より、傍にいたい。
「ああ」
そっと頭を撫でられる。
髪に頬が触れる。
「ノア……あなたがいることが、私の幸せだ」
「うん、私も」
耳元で囁かれる声に頷き、身体を預ける。
何気ないことがすべて幸せで、くすぐったくて。笑い合いながら何度もキスを交わす。
この出会いは運命で、選び取った選択で。
ひとりではきっと、どれだけ立派な翼を持っていたとしても、うまく飛ぶことはできなかった。
きっと、狭い空しか知らずに終わった。
だがふたりならきっと、高く遠く飛べそうな気がする。
どこまでも。どこまでも、高く、遠く、未来の果てまで――
ノアの残した研究成果や数々のノートは、その後あらゆる分野の発展の礎となった。特に医療や化学の分野において。
やがてノアは人々からこう呼ばれる。
――始まりの錬金術師、と。
完。
これにて本編完結です。ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。
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今後は番外編を不定期で更新したいと思いますのでよろしくお願いいたします。






