7-23 異物
帝都上空に新たに生まれた太陽は、神々しい光を放ち赤い空を照らす。
しかしその表面に黒い点が浮かんだかと思うと、次の瞬間に黒点に光が吸い込まれる。太陽は一息で飲み込まれ、そして太陽のあった場所には暗い穴が開いた。光も打ち消す闇が蠢く穴が。
風が吹く。
穴が空気を――否、魔素を吸い込んでいく。
帝都に満ちて空を赤く染めていた魔素が、穴の中へと消えていく。
瓦礫の上に伏していた竜の身体がゆっくりと浮かぶ。見えない大きな手に持ち上げられるように。
山のような巨体が浮かび上がり、ノアの前に影を落とす。
時空に開いた穴は竜の身体をゆっくりと、だが確実にすべて飲み込んで、この世界から消した。
そして竜を飲み込んでも穴は消えなかった。
「え?」
ノアは、自分の身体が引っ張り上げられかけていることに気づく。
海の波の間でたゆたう小舟のように、抗えない力で持ち上げられる。
「ノア!」
ヴィクトルが驚いてノアの腕をつかみ、引き戻そうとする。ノアもその腕をつかみ返すが、身体は重さが消えたように足が浮き、空に吸い込まれそうになる。その力は強く、いくらヴィクトルに引っ張られてもどんどん身体が空へと落ちていく。
(どうして私だけ)
ヴィクトルには何の力も働いていない。ノアだけが吸い込まれていっている。
ひとり吸い込まれようとしているノアの腕をヴィクトルがつかんでいるため一緒に引き寄せられているだけだ。
――なぜ自分だけがなんて考える必要もない。
(私が、この世界の異物だから――)
理由は明白だった。
世界の摂理が、異邦者を排除しようとしている。
あるべき形に正すために。
穴を見上げる――否、見下ろす。
あの穴に吸い込まれればどうなるのだろう。
この世界から消えるのは間違いない。竜の――カイウスの身体のように。
消えた後はどこへ行くのか。何も残らず消滅するのか、あるいはあの時空に戻るのか。三百年前のあの時に。
身体はどんどん浮き上がり、暗い闇が近づいてくる。異物を飲み込む深淵が。
ノアは、必死に引き寄せようとしているヴィクトルの腕を離した。
「ヴィクトル、離して。このままじゃあなたまで――」
バーミリオン卿もなんとかしようとしてくれているようで、ヴィクトルが踏ん張れるようにノアが上がるたびに同じだけ上がってくれている。
だがそれよりも、摂理の力の方が強い。
摂理が異邦者を排除して世界をあるべき姿に正そうとしているのなら、どれだけこの場所にいたいと思っても逃れることはできない。この世界に生きたいという願いは許さない。
それが世界の摂理なら。
「ヴィクトル……!」
このままではヴィクトルやバーミリオン卿をも巻き込んでしまう。そんなことこそノアは許さない。
それでもヴィクトルは手を離そうとしてくれない。
「…………っ」
離してくれないのなら、無理やり剥がすしかない。
導力はほとんど切れているが神経に軽い衝撃を与えるくらいならできる。一瞬でも力が緩めばそれで終わる。
――パチン。
ヴィクトルの顔が歪む。
軽い痛みと衝撃が走ったはずで、普通なら手に一瞬力が入らなくなるはずだった。
しかし腕を掴む力は緩まないどころか、むしろ強まる。
「離すものか! 絶対に……!」
振り絞るような声と、強い力で繋ぎ止められる。
その力は強く、少しずつノアを引き寄せるほどだった。
「ヴィクトル……」
足に冷たい感触がまとわりつく。
振り替えると、穴がどんどん膨らんでいく姿が見えた。
――穴が、弾ける。
放たれた闇が大きく広がり、空を包み込む。すべてが闇の嵐によって覆われた。
##
澄んだ空気の中に響く、鳥の鳴き声で朝の訪れを知る。
固いベッドの上で身を捩り、薄っすらと瞼を開く。
「ここは……」
寝ぼけた声で呟き、周囲の様子を見る。
「――あ、家だ」
王都郊外の森の中に建てた、自分だけの家。その自室が、カーテンを通して差し込んでくる朝の光によって照らし出されている。
なんだかひどく懐かしい気分だった。昨日も一昨日もここで過ごしているのに。
夢を見ていたのだろうか。かなり深い眠りの中で、長い夢を見ていた気がする。とてもとても長い夢を。
しかし思い出そうとしてみても、具体的にどんな夢だったか何も思い出せない。
とても悲しくて切なくて、嬉しくて楽しい夢だった気がした。
顔に濡れた感覚があった。
――夢を見ながら泣いていたのか、涙のあとが残っていた。
目元を拭い、再び瞼を下ろす。
もう一度眠れば夢の続きが見られるだろうか。
(無理だろうな……)
試してみなくてもなんとなくわかる。
名残惜しいが夢は夢。現実はここだ。現実が今日も始まるのだから、起きなければ。
気を取り直し、身体を起こしてカーテンを開ける。
そこに広がるのは朝の空と、森の光景。そして薄っすらとした霧の向こうに、王城の姿があった。
遠くにあるようで近くにあり、近いようで遠い場所が、今日も眩しい。
しかしそれは次の瞬間、煤けぶった廃城の姿へと変わる。王の住む輝きは失われ、空は赤く染まり、森が深度を増す。まるで突然滅びを迎えたかのように。
「――――っ」
息を飲み、目元を擦り、もう一度見る。
先ほどの朽ちた姿はもうない。いつもと同じ優雅で壮大な姿でそこに鎮座していた。
「なに、いまの……」
目元を押さえる。念のためもう一度見てみるが、やはりいつもと同じ王城の姿があった。先ほどの不吉な光景はもうどこにもない。
――疲れている。
幻覚まで見えるなんてかなり疲れてる。
顔を洗って朝食の用意をして、ゆっくり食べて今日はもう一度寝よう。
怠惰な計画を立てて部屋を出た。
顔を洗ってキッチンへ行き、朝食の準備を始める。
竈に火を入れフライパンを置き、塩漬け燻製肉とキノコでオムレツをつくる。昨日のスープの残りも温める。
「うん、おいしい」
今日のオムレツも上出来だ。バターとミルクの香りがいいし、火加減もちょうどよく中がトロトロだ。
「うーん……何かを忘れているような……」
食べながら首を傾げる。
何か大切なことを忘れているような気がする。
「――そうだ! 王城へ行く日だった! 急がないと!」
のんびりしている場合ではない。急いで支度して王都へ行かないと。
急いでオムレツとスープを胃に流し込んで、髪を梳いて、錬金術師の黒いローブを上から被ろうとした時だった。
右腕に変な感覚がした。着替える手を止めて見てみると、大きな痣ができていた。
「なにこれ……」
まるで、大きな手で柄まれているかのような、真新しい赤い痣。
痣だけではなく、薄っすらとだが実際に腕をつかまれているような感覚があった。
「どこかで呪いでも受けたのかしら」
しかし呪いにしては禍々しい感じはしない。
むしろあたたかく、そして――何故か切実なものを感じた。
この先に誰かがいて、自分を呼んでいるような――
「……まあいいか。そのうち消えるだろうし」
実害がないのなら後回しだ。消えなければまた考える。
いまのエレノアールには王妃に会いにいくという大切な用事があった。
それだけではない。
「今日はエミィとカイウスに会って、終わったら庭に顔を出して……」
特にグロリアは長期間顔を出さないとうるさい。
もうすぐ国家認定試験を受けるハルの様子も気になる。
「あの症例をヘルメス先生に相談して……ミーシャの新薬作りは順調かしら」
冒険者から聞いた、地方で流行り始めたという病気も気になる。流行が拡大する前に調査して治療法を探さなければ。やることはたくさんある。
あの日マグナファリスに勧誘されて錬金術師の道を歩み始めてから、そこからはひたすら走り続けてきた。
国家錬金術師としても認められて、錬金術師としては順風満帆だ。能力が認められて、結果を出せて、人々を救うことができて、自分は幸せなはずなのに。
――なんだろうこの寂しさは。
ずく、と。
胸と腕に熱い感触が刺さる。
(熱い……)
あの痣がある部分がじんじんと熱い。袖をまくって、掴まれたような痣がある部分をそっと撫でる。
感じるのは自分の肌の感触だけだ。
これは、誰かの手なのだろうか。
だとしたら誰が――……
痛くはないが、別の場所に引っ張られてしまいそうな怖さがあった。
「それもちょっといいかもね」
痣を見つめながら笑う。
もちろん冗談だが、冗談も言いたくなるくらいには、これから向かう先は少しばかり気が重い。
ほんの少しだけ。






