7-20 落下
カイウスは避けなかった。逃げなかった。
まるでこの結末を望んでいたかのように、ノアのナイフを受け入れていた。魂を傷つけ喰らう黒いナイフを。
肉体の再生能力によりナイフが押し返されていく。生々しい不死の感触を感じながら、その度にぐっと押し込む。
――カイウスと本格的に対立した場合はどうするかをずっと考えていた。
不老不死の相手にどう対抗するべきかと。身体を溶かすような猛毒はもう作ることができない。材料がない。
ノアが出した結論は、魂を喰らう呪素で対抗することだった。そう思って呪素のナイフをつくり、入念に研ぎ澄ませてきた。
そしてカイウスと話して、その決意を知って、決断した。
カイウスが自分の足で止まることができないのなら、王道を進むしかないのなら、この手で止めなければと。
カイウスの歩もうとしている道の先には何もない。真っ暗な底無しの穴しか。そんな場所には誰も行かせない。
だからこの方法しかないのだ。
共に堕ちることはできないノアには、この方法しか。そのために、この帝都で一番高い場所に来てからずっと、錬金術殺しの手錠から解放されてからずっと呼んでいた。地上の呪素を。
大地に満ちる呪いを。
全神経を研ぎ澄ませ、塔のすぐ下にまで迫っていた呪素を呼ぶ。
帝都で一番高い場所は最も呪素を呼ぶのに適していない場所だが、黒い霧が床から染み出し、ノアの手に絡みついた。それは手を通ってナイフを通じて、カイウスの中の魂を食い荒らす。
呻き声をあげて苦しむカイウスを抱きしめる。
(ねえ、カイウス。どうして私の心を殺さなかったの?)
そうすれば、すべてはカイウスの望みどおりに進んだはずだ。そうしなかったのは、彼の人間性の名残であり、完璧というものを忌避して揺らぎを求めた結果なのかもしれない。
未来の可能性を何本も用意したかったのかもしれない。より良い未来を求めていたのかもしれない。
たぶん、カイウス自身わからないだろう。
「カイウス、あなたをひとりにはしない」
共に行くことはできない。だが共に終わることはできる。
ナイフを更に差し込んで、自らの身体を突けば終わる。この命も。この運命も。
両手でナイフの柄を握り、ぐっと押し込んだ。
あと少し――
「陛下を……離しなさい!」
両手に激しい衝撃が走る。
ほとんど身体が潰れていたグロリアが、最後の力を振り絞ってノアの両手を打ち据えた。
引き裂かれるような痛みと衝撃に、指が弛緩し、手が離れる。
その瞬間、グロリアの身体が大きく伸びて長い紐のようなものに変わり、ノアの身体に巻き付く。魂すべてを込めた動きで。
命が燃える。その炎の熱さに触れたとき、グロリアの身体が蒸発し、ノアの身体は虚空へ弾き飛ばされた。
塔の外側へ。
――落ちる。
重力に絡めとられる瞬間に見えたのは、驚いてこちらを見ているカイウスの姿だった。その口元には血が流れ、目元には涙の痕が残されていた。
再生した身体からナイフが抜け落ちる。刃が床を叩いた乾いた音を合図にして、ノアの身体が地面に引き寄せられていった。
――落ちる。
抗わなければ。頭ではわかっているのに、力が入らない。
(ここまでなの?)
何もかも中途半端なまま、このまま死ぬのだろうか。地面に叩きつけられて。
ひとりにしないと言ったのに。
たくさん約束をしたのに。何も叶えられないまま。そしてそれはひどく自分らしいと思った。そういう運命なのだろう。
残念だがこれは助かりそうにない。ひとつだけ、こういう時のための備えがあるが、準備が間に合いそうにもない。それに身体も動かない。指先ひとつも。本当に、備えが甘いと思った。
諦観が訪れる。
緩やかに死を迎えようと、安らぎが言う。もういいだろう。十分やった。抗った。もう、楽になっていい。
(いや――死にたくない)
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
諦めたくない。
(生きたい!)
目を開く。見えるのは赤い空と黒い雲、そして伸びていく塔だけ。聞こえるのは唸る風の音だけ。
風の音が少し変わる。遠くで大きく轟く音が混ざり、それがどんどん近づいてくる。
こちらに向かって、大きな存在がすごい速さで迫ってくるかのように。見えないが聞こえる。
ふわりと、落下スピードが遅くなる。一瞬浮いたような錯覚に陥るほど。顔を音の方に向ければ、迫りくる黒い飛翔体が見えた。あまりにも速いため、その形すらつかめない。
迫りくる大きな存在と空中で衝突する――だがその衝撃は、大きさと速度の割には覚悟していたよりも柔らかい。地面に打ち付けられるよりよほど。
「ノア」
衝撃の余波が抜けたとき、耳元で気遣う声が響く。
閉じた目をなんとか開くと、すぐ近くにヴィクトルの顔があった。
「ヴィクトル……」
青い瞳と目が合うが、すぐに溢れた涙で視界が滲んで前が見えなくなる。
首に腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
都合のいい夢を見ているのだろうか。夢でもいい。塔から落ちている途中で飛竜に乗ったヴィクトルに抱きとめられるなんて奇跡、夢としか思えない。
「無事で、よかった……」
「ああ……郊外にまで飛ばされたが、おかげで卿と合流できた。遅くなってすまなかった」
抱き上げられる感触と声、そして体温は、夢ではない。
すぐに再会できるとカイウスが言っていたが、本当にそのとおりになった。二度と会えないことを覚悟していたのに。
《剣よ、今度はそちらの番だ》
「ああ」
静かに響くバーミリオン卿の声に、ヴィクトルが頷く。
塔の上を見上げるその表情は真剣そのもので、これから死地へと赴くものの顔だった。
ヴィクトルはノアの身体をバーミリオン卿の背に下ろす。ノアはそのまま飛竜の背にしがみつくように座り込んだ。腰が抜けてしまっていて足が立たない。
大皇宮の周囲を旋回していたバーミリオン卿が、上へ飛ぶ。風も音も置き去りにするような速度で一瞬で塔の上まで到達する。
塔の屋上ではカイウスが、床に両手をついて座っていた。飛竜を見上げるカイウスと目が合う。
カイウスは笑った。いまにも壊れそうな笑みで。傷は完全に癒えていて、立ち上がる動作も、手をかざす動作も流れるようだった。
導力がカイウスの周囲を歪ませる。飛竜に向けての攻撃が錬成されていく。
ヴィクトルの手元の空間が歪む。何もなかった場所に、白い剣が錬成される。ヴィクトルは当然のようにその柄を握った。
マグナファリスから授けられた白い剣を。美しい生き物のようなその剣は、誂えられたかのようにヴィクトルの手に馴染んでいた。
《往け。死に追いつかれる前に》
バーミリオン卿の暴風がカイウスを襲うと同時、ヴィクトルが剣を手にしたまま飛竜の背から飛び降りる。まるで鳥が飛び立つように。
ヴィクトルの身体を黒い炎が包む。カイウスの炎――
ヴィクトルは炎を纏ったまま、怯むことなく空中で剣を上段に構えた。
白い剣が吸い込まれるようにカイウスに振り下ろされる。
ヴィクトルの着地と同時にカイウスの身体は真っ二つに斬り裂かれた。






