7-9 刹那の逢瀬
アルカッサスは春の訪れと共に咲く。
その花には特別な思い入れがある。
王城の中庭に植わっていたこの樹は、春になれば薄紅色の花を咲かせる。
ノアが――エレノアールが生まれた時からの婚約者に婚約の解消を求められた時も、その花が咲いていた。
花びらが、雪のようにひらひらと舞い落ちる様をよく覚えている。
そしてアルカッサスの樹の下で、マグナファリスに錬金術師にならないかと誘われた。
それは生きてきた理由を無くしたばかりの少女にとって、とても魅力的な勧誘だった。
悲しい想い出もある花だが、美しい想い出も多い花だ。この空中庭園にあるということは、マグナファリスにとっても、想い出の花だったのだろうか。
やわらかい緑の葉にそっと触れて、その場所を離れる。
想い出ばかりに囚われている時間はない。
噴水の縁に座り、夜の帝都を眺める。無数に瞬く光の中に錬金術の光はない。
――ヴィクトルはいまごろどうしているのだろう。大皇宮からは出られただろうか。公爵邸にいるのだろうか。無事だろうか。
夜風を浴びながら思う。
(カイウスの望むものを見つけ出せたら、ここから出られる……? でもそれは、良くない予感がする)
募る不安を思わず口に出してしまいそうになり、ぐっと飲み込む。
言葉にしてはいけない。言葉にすれば感情に囚われる。
膝に額を押さえつけ、視界を闇に閉ざす。涙も嗚咽も、こんなところで零すわけにはいかない。
その時、誰かの足音が空中庭園に微かに響いた。
顔を上げ、息を殺し、耳を澄ませて慎重に気配を探る。
扉が開いた気配はなかった。こちら側も向こう側も。気づかなかっただけかもしれないが。
巡回の兵士だろうか。ノアを探しに来たメイドだろうか。
赤い花が咲く植物の陰――葉の隙間からこっそり覗き、目が合った。
銀色の髪の、長身の男性。
「ヴィクトル」
感情を抑えきれず、名前を呼んで立ち上がり、走り出す。
どうしてここにいるのか。壁を登ってきたのだろうか。そんなことどうでもいい。
触れたい。声が聴きたい。無事を確かめたい。
互いに駆け寄り、存在を確かめ合う寸前――先ほどまでなかった壁が、行く手を遮る。
薄い薄い、目には見えない壁が、接触を阻む。
壁自体は柔らかいため弾き返されずに済んだが、それ以上どうやっても進めない。いくら押しても、破ろうとしても、今度はぴくりとも動かない。
ヴィクトルも壁に触れて、その理不尽な障害に顔を歪め、剣を抜く。
ノアが思わず後ずさると、少し離れた場所に剣を振り下ろす。しかし、剣は何も斬ることなく、砕けた。
ガラスが割れるように呆気なく刃が零れ、折れ、弾き飛ばされる。
「ヴィクトル……」
剣を手放した拳が、壁を叩く。しかし壁は揺るぎもしない。
苦しそうな表情に、ノアも胸を締めつけられた。
――苦しい。悔しい。
触れ合うことも、声を聞くことも、音ひとつも壁に遮られて伝わってこない。
何か言っているはずなのに、聞こえない。多分こちらの声も。こんなに近くにいて、お互いを見ることができるのに、それ以上何もできない。
すぐそこにいるのに。
触れたい。
触れたい。
触れたい。
――ああ、それでも。触れられなくても。
ヴィクトルの手に、自分の手を重ねる。壁越しでは感触も温度も伝わってはこないが、思いは伝わるかもしれない。
――無事でよかった。来てくれて嬉しかった。会えて嬉しい。
泣きそうになりながらも笑みが溢れてくる。
生きているならそれだけで充分だ。それだけで力が湧いてくる。
ノアは壁から手を放し、離れると、亜空間ポーチの中から帝都の地図と鉛筆を引っ張り出す。
地図の一部に鉛筆で印しをつけ、ヴィクトルの眼前に持っていく。
ヴィクトルは驚いたような顔をしていたが、その場所を確認すると小さく頷いた。
ノアも頷き、印しを消す。他の誰かに見られないように。
そして、名残惜しさを感じながらもヴィクトルに背を向けた。本当なら無理やりにでも壁を破って出ていきたい。だが、いまはそれは叶わない。
だから未来の約束をした。
壁越しに重ねた指先がじんじんとする。
その熱は塔に戻っても、部屋に戻っても、ベッドに横たわっても、いつまでも残り続けた。
(やっぱり賢者の石は、存在してはいけない)
大切な人が、大切な人たちができたいまだからこそ改めて思う。
賢者の石はすべての命を溶かして、混ぜて、固めたもの。
個を無くし、ひとつにしたもの。
罪深く歪んだ禁忌の術でつくられる、命の宝石。
その欠片を使ったことがあるからこそ、その強大さがよくわかる。そして、こんなものは二度と誕生させてはいけないのだと、強く思った。
その石が生み出す力では、ひとりひとりが持つ力や未来とは、とてもとても釣り合わない。
##
翌朝も、空はやはり赤かった。
半分眠ったままの頭で、赤い空をぼんやりと眺める。
(熟睡してしまった……)
こんな状況で、我ながら神経が太いと思った。
今日こそは塔の中を探し回るべきだろうか。主のいない研究所を探し回るというのは気が引けるが。
それに、何か見つかるとも思えなかった。
(ここはまるで眠っているみたい)
主を失い眠っている。
いまは何をしても目覚めさせられるとは思えない。
部屋で運ばれてきた朝食を食べ、紅茶を飲む。甘い、懐かしい味がした。これも双子の妹エミリアーナが好きだった紅茶だ。
それからの時間も部屋にこもったまま、部屋の本棚から適当な本を手に取るが、あまり読む気になれず本棚に戻す。
無為な時間を過ごしていると、軍服を着たゾフィアが部屋に来た。
「護衛のゾフィア・ランベルトです」
凛とした表情も、軍服も、長年身に着けてきたかのように身体に馴染んでいる。ゾフィアは男爵家の当主だと聞いていたが、正規の軍人でもあるのだろうか。
「こんにちは」
ノアと郊外の森で出会っていることに、気づいているのかいないのか。
レジーナのお茶会で会ったことを、覚えているのかいないのか。
淑女の柔らかさと軍人の固さが備わった表情からは、顔の下の心は窺い知れない。
「ここは退屈ですか?」
「はい」
本音で応えると、ゾフィアは苦笑する。
「失礼しました。ご友人をお呼びしましょうか? パーティでも開きましょうか?」
「いえ、そういうのは……」
「外出をご希望なら、わたくしが護衛いたしますが」
「ぜひ、お願いします」
この場所から出られるチャンスを逃がす手はない。
罠かもしれないがこの際構わない。
「承りました。どちらへ行かれたいかなどはありますか」
「大聖堂へ。帝都の南にある、大聖堂へ行きたいです」






