7-7 偽りの皇帝
「ああ、やっぱり母上にそっくりだな……絵姿でしか知らなかったが……」
外界と隔絶された一室、大皇宮の控えの間に閉じ込めらたノアの耳に、奥の扉の方から感嘆の声が届く。
ゆっくりと振り返ると、室内に入って扉を閉める少年の姿が見えた。
十四歳くらいの金髪の少年は、青い瞳でノアに視線を返し、無邪気に微笑む。
凛々しい顔はアレクシスそっくりで、目元はエミリアーナによく似ていた。
「――カイウス」
いまの帝都では皇帝のものであるその名前を呼ぶと、嬉しそうに笑みを深めて小さく頭を下げる。
「お久しぶりです、エレノアール伯母上。楽にしてください。邪魔は入りませんから」
「他の人たちをどうしたの」
「別の場所で無事に過ごしていますよ。用があるのは伯母上だけですから」
テーブルの上にはいつの間にかお茶会の準備がされていた。
湯気の立つ紅茶とたくさんの茶菓子がずらりと並べられている。紅茶の香りに懐かしさを覚える。昔、実家でよく飲んでいた紅茶だ。
皿に盛られている菓子も懐かしいものばかり。双子の妹が好きだったものばかりだ。
――双子だから同じものを好きだと思われているのだろうか。
(好きだけど)
食欲よりも複雑な気持ちの方が湧いてくる。
カイウスを産んですぐに妹は亡くなった。カイウスには母の記憶がない。母の面影をノアに見ているのだろうか。双子でも別の人間だともちろんわかっているだろうが、母に一番似た存在に特別な思いを抱いているのかもしれない。
「…………」
話をしたい――しなければならないとずっと思っていたのに、いざとなると言葉がうまく出てこない。
伯母ではあるが会ったのは生まれたときだけだ。実際に生きてきた時間はカイウスの方がずっとずっと長い。
(そんな私が何を言える……?)
怒りのままに逃げ出した自分が。
ノアが逃げ出さず、アレクシスと向き合い、戦っていれば、世界の在り方もカイウスの運命も変わっていたかもしれない。
カイウスはノアをずっと見ている。わずかな動きも、表情の変化も見逃さないように。
――目を逸らしてはいけない。
ノアは手を握りしめ、己を鼓舞させる。
「カイウス、あなたは何をするつもりなの。帝都を乗っ取ったのも、理由があるのでしょう?」
ただ王国を滅ぼした帝国への復讐だけが目的ならば、すぐに終わるはずだ。帝都を破壊すれば終わる。
だがカイウスはわざわざ皇帝を殺し、その地位に納まっている。カイウスは王国を復興させようとでもしているのだろうか。
「伯母上が眠られてから三百年ほどでしたか。伯母上から見て、この世界はどうですか? 伯母上がいた時代からどう進化していますか?」
「……あまり変わりはないわ」
進化はしていない。それどころか後退している部分すらある。
海の向こうから入ってきたという銃の方が、技術や思考の進化を感じられる。
「そうでしょう。この世界は停滞している。神を気取る者どものせいで」
忌々しげに吐き捨てて。
「僕はこの世界の進化を加速させ、停滞を打ち壊します!」
嬉しそうに笑顔を向けてくる。
その表情は少年のものなのに、思考は王のものだった。
いまのカイウスは復讐などは考えていない。思考の根底にはあるかもしれないが、カイウスはずっと先を見ている。ずっとずっと先を。
そしてノアには、カイウスの言っていることはわからなくもなかった。
「……錬金術そのものにはもう発展の余地はないことはわかるわ。別の方向からの発展が必要で、そこには錬金術の知識は活かせると思う」
「さすが伯母上だ。僕も同感です。この世界はもう、錬金術を発展させる余地はない。ただの大道芸に成り下がっていく。発展を願うなら、神域を捨てて外の世界と向き合う必要がある」
その思考も理解できる。外に目を向け、向かい合っていかなければ、やがて外から押し潰される。かつての王国のように。
「残念ながら、いまは海の向こうの方が技術的に発展している。いまのまま外と接しても、隷属させられる未来しかない。――だが我々の手には錬金術の究極の力が残されている」
「……カイウス、あなたまさか」
カイウスを見つめる。
そこにいるのは少年の姿をした、未来を憂う王であり、老獪な錬金術師だった。
「まずはこの帝都の人間で賢者の石をつくる」
「――――ッ!」
「それを以て外の世界を隷属させ、賢者の石に変えていく。そうすれば大いなる力を得られ続ける。この地を守ることができます」
身体が震える。恐怖で。
腹の奥が熱い。怒りで。
怒りが恐怖を掻き消した。湧き上がる熱が、不老不死の王への恐れを霧散させる。
「……それを繰り返して行き着く先は、世界の終わりよ。何も残らない」
未来などない。
すべて壊れたあとで芽吹くものもあるだろうが、カイウスの描く青地図にはとても同意できない。多くの命を暴力で蹂躙するやり方に、どうして賛同できようか。
「命を大切にする伯母上の信念も理解はできる。しかし航海技術の発展により神域は破られ、外の武器まで入ってくる始末。いずれ脅威がこの地を蹂躙する。それだけはあってはならない。いまの犠牲か、未来の犠牲かの違いです」
「カイウス! 私は間違っていると思うことは止めるわ! あなたのしようとしていることは、いまにも未来にも大きな犠牲と禍根を残すことよ!」
壁を乱暴に殴る音が、室内に反響した。
「……あなたも僕を否定するのか」
怒りと失望に震えた声。
青い瞳にはそれらと共に、深い悲しみが湛えられていた。底のない海のような。
どこか人懐っこかった雰囲気が一変し、対立を露わにした敵を見る目に変わる。
部屋の空気が変わる。黒い水が満ちたかのように、重く息苦しいものに。
「僕を止めたいのなら、方法はひとつだ。だが僕は死なない!」
カイウスはテーブルの方へ行くと、置かれていたナイフを手に取り、切っ先を鋭く変化させた。
「カイウス!」
カイウスは自分の心臓を突いた。刃の根元まで突き刺し、勢いよく引き抜いた。
血がどくどくと大量に溢れ、瞬く間に服を赤く染める。
治療も間に合わない致命傷だ。しかし血の噴出はすぐに止まる。
カイウスは顔色ひとつ変えずに、服を染めた血を埃を払うように分解する。胸の位置に入った穴も修復する。流血の痕跡は、血に濡れたナイフ以外、何も残らなかった。
その再生力は超越者と同じか、それ以上だ。それでいて肉体も精神も自己を保っている。カイウスは既に、超越者よりも完成された存在となっていた。
誰も自分を止めることはできないと、その目が言っている。
老いや死からも解放された、完璧であるはずのその姿が、ノアには痛々しく見えた。
「……カイウス、あなたなら他の道も見つけられるはずよ」
「悠長にしている時間などない」
何百年も生きているはずなのに、これからも悠久の時間を生きられるはずなのに、何をそんなに生き急いでいるのか。
王としての自負なのか。民に対する愛なのか。それとも他に理由があるのか。
いまのノアにカイウスを理解することはできない。
「先生を……マグナファリスをどうしたの」
カイウスは鼻で笑った。
「あの女の異能はなんだった? 伯母上もその身で知っているだろうに」
――記憶と空間の操作。
「奪ったのね」
「強者が弱者を喰らう。この世の摂理だろう」
「…………」
ならばこのまま自分のことも喰らうのか。ノアはそう思ったが、カイウスはそんな素振りは微塵も見せなかった。激情は落ち着き、冷静さを取り戻している。重苦しい空気も消えている。
カイウスは血に濡れたナイフを床へ投げ捨てる。
「僕はこの世界を愛している。あなたもそうだと信じている」
「…………」
「マグナファリスが使っていた塔を自由に使うといい。そこであなたは、あの女の正体を知るだろう」






