7-4 歪み
グロリアが消える。三百年以上生きていた錬金術師は、驚くほど呆気なく消滅する。
ヴィクトルはグロリアを斬った剣を鞘に納めると、ノアの元に戻り「すまない」とノアを肩に担いだ。
「えっ?」
事態を飲み込めない内に、ヴィクトルは走ってその場から逃げるように離れる。
ノアから見えたのは、意識を取り戻して立ち上がり始めた軍人たちの姿だった。
森の中をかなり移動し、帝都に向かう街道に差し掛かってからヴィクトルはノアを肩から下ろした。
人ひとり担いで走っていたのに、息の一つも乱れていない。担がれていたノアの方が息が乱れているという有様だ。
「もう追っては来ないだろう」
走ってきた方角を見つめ、ヴィクトルが言う。
「あのままだと新手も来るところだった」
「ありがとう……薬の効果も思ったより早く切れてたみたいだから、助かったわ」
強力だが短時間で体内で分解されるように調合した眠り薬だったが、実験よりも起きる時間が早かった。空気中に分散して取り込む量が減ったためだろう。
「ノア、大丈夫か」
「……グロリアのことは覚悟できていたつもりだったんだけど……ごめんなさい、私がやらないといけないことだったのに」
ヴィクトルがグロリアを斬ったのは、そうしないと危険だと判断したからだろう。
ノアもそのつもりだった。グロリアはこちらに降参するつもりなんてまったくなかった。だが、殺すことを躊躇してしまった。
迷いと弱さの後始末をヴィクトルにさせてしまった。
「私はあなたの剣だ」
少しぎこちない手付きで頭を優しく撫でられる。
零れかけた涙を無理やり押し留め、顔を上げる。
「ヴィクトルは私の大切な人よ。……ありがとう。もう、だいじょうぶ」
後悔は散々してきた。これからもするだろう。
それでもいまは泣いている場合ではない。
「それにしても、あんなところでいったい何をしていたのかしら」
「戻ってみるか?」
確かめたい気持ちはあったが、首を横に振る。グロリアがいなくなっても、軍はまだあの場所にいるだろう。帝国軍と事を構えたくはない。
「帝都の方へ急ぎましょう」
帝都に向かう馬車の荷台に乗せてもらい、旅人として帝都へ向かう。
荷台から見上げる空はやはり赤く、そのことに誰も疑問を抱いていないようだった。
空を見上げながら、グロリアの言っていた言葉を思い出す。
マグナファリスは死んだと、グロリアは言っていた。あの状況での言葉だ。嘘ではないだろう。
だが、バーミリオン卿はマグナファリスは死んだも同然と言っていた。
おそらくはまだ生きている。だが決して状況はよくない。それでも、生きているのなら助けられるかもしれない。
希望は糸のように細いが、絶望するにはまだ早い。
##
帝都は変わらぬ栄華を誇っていた。
厳戒態勢が敷かれているかと思っていたが、門では検問もなく、警備兵の増員もなければ緊迫した雰囲気もない。
無事に帝都内に入り、辻馬車を拾って移動しながら街の様子を見ていくが、気になるようなことは何もなかった。至って普通の、平和なの日常の時間が流れていた。
そのあまりに変わらない姿が不気味だった。
大皇宮前の広場で辻馬車を降り、侯爵邸へ向かう。
帝都の侯爵邸がどんな状態になっているか――侯爵邸は遠目から見てもわかるくらい閑散としていたが、到着後に不安は杞憂に終わる。
地面は大人数に踏み荒らされた痕跡が残っていたが、攻撃や放火、略奪などの後はない。皇帝殺しの容疑がかかった後に兵が押し寄せたのだろうが、その時には既にもぬけの殻で、流石に無人の侯爵家相手に無作法なことはしなかったということだろう。
人がいないのは元からだった。屋敷の規模の割に少人数しかいないのは、領地でも帝都でも共通している。
「お帰りなさいませ、旦那様、エレノア様」
唯一帝都に残っていたフローゼン家の執事マークスが、出迎えに出ていた。
ヴィクトルが嬉しそうに破顔した。
「マークス、無事で何よりだ」
侯爵邸の中は昼間だというのにほとんど締め切られていて、暗い。外から見た人間は、この家は無人だと判断するだろう。
「皇帝が死んでからの情勢を聞きたい」
玄関に入ってすぐ、外套も脱がずにヴィクトルはマークスに聞く。
「旦那様、皇帝陛下は変わらずご健在です」
マークスはまったく表情を変えず、そう答えた。
ヴィクトルもノアも言葉を失った。
「……皇帝の名は?」
ヴィクトルが慎重に問うと、マークスは当然のように答える。
「我らが永遠の太陽、カイウス皇帝陛下です」
ヴィクトルは微塵も動揺の色を見せずに、問いを続ける。
「その治世はいつからだ」
「帝国建国以来です」
歴史の授業をするように、執事は答えを返す。
「なるほど。よくわかった」
――とてつもないことが起きている。
侯爵家に仕えているマークスが当主であるヴィクトルに嘘を言うはずがない。冗談を言っている雰囲気でもない。
これが、いまの帝国の歴史なのだ。
おそらくこの帝都に住む誰もが、偽りの歴史を真実だと思っている。
あまりにも当然のように言われるため、ノア自身、どれが本当のことだったかと惑わされるほどに。
記憶の操作自体は、マグナファリスの力があれば可能なことをノアはよく知っている。しかしそれを帝都全体に施すなんて、いったいどれだけ大掛かりな術を使ったのだろう。
――永遠の太陽。
沈むことのない――死ぬことのない皇帝。
「おや、客人のようですな」
マークスがそう言った直後、外から馬車の音が近づいてくる。
確認のために外に出たマークスは、すぐに戻ってきて当主に来客を告げた。
「旦那様、ボーンファイド公爵家の新当主がいらっしゃいました」
「久しぶりだなヴィクトル!」
公爵家の紋章が入った重厚な馬車から降りたドミトリが、友好的な笑みを浮かべて意気揚々と玄関ポーチまでやってくる。長年の友人に接するかのような、快晴の空のように曇りない笑顔で。
「…………」
事態を飲み込めていないヴィクトルは、非常に渋い顔でドミトリと向かい合う。
ノアにもまったく状況が見えない。ドミトリにとってヴィクトルは父と弟の憎い仇であるはずだ。その死をまだ知らないとしても、この友好的な態度は有り得ない。
そしてドミトリは、ノアのことは最初に一瞥しただけで、後はまるで視界に入っていないようだった。使用人か雇い人とでも思っているのだろう。
「……父君のことは、不幸なことだったな」
充分な時間を置いてから、ヴィクトルがドミトリへ声をかける。
ドミトリの表情に陰りが差した。
「ああ……父も弟も、重い病であっという間のことだった……病が病ゆえ、葬儀はごく身内だけで執り行うつもりだ」
「そうか」
故人を悼むように、沈痛な面持ちでヴィクトルは頷く。
ノアはヴィクトルが公爵の話を出した時は驚いたが、自然に情報を引き出していることにまた驚いた。そしてその内容にも。
殺された皇帝は最初からいなかったことにされている影響か、皇帝殺しの事件もなかったことになっている。それならばゾフィアの態度にも納得がいった。
そしてドミトリのヴィクトルに対する態度を見る限り、あの闘技場の決闘もなかったことになっているのだろう。
――何もかも、なかったことになっている。
ニコライ・ボーンファイド公爵とルスラーン公子は己の信念のために立ち上がった。その果てに死んだ。それなのに単なる病死と扱われ、死の意味が完全に失われていた。
ノアはあの二人の信念に賛同することはできなかったが、これではあまりにも報われない。
何もかもが歪められている。
歪められたことで不自然なことが出てきているはずなのに、誰も何ら疑問に思わないのだろうか。記憶操作の強さと影響にぞっとする。
「しかしどうしたんだ、この閑散とした有様は。使用人に暇でも出したか」
人の気配も華もない屋敷を見上げながら、ドミトリがやや呆れたように問う。
「そんなところだ」
「相変わらず妙なことばかりする。――しかし! ちょうど良かったな! 私は我らの永遠の太陽である皇帝陛下より、君をもてなすように頼まれている。さあ、私と共に来てもらおうか」
「断る」
「何故だ!」
「厚意には感謝する。だがそちらも立て込んでいるだろう」
「何を水臭い。我らは無二の親友ではないか!」
ヴィクトルは普段はあまり感情を表には出さないが、微妙に嫌そうな顔をしていることにノアは気づいた。――特に『親友』という言葉に。
それはさておき。
ドミトリにヴィクトルをもてなすようにカイウスが言ったというのは気にかかる。カイウスにこちらの動きは筒抜けで、そしてこちらの存在を気にしているということだ。
「……わかった。それでは甘えさせてもらおう」






