7-3 白の錬金術師の最後
「良家のお嬢様には少し難しかったかしらぁ」
緊張した面持ちのゾフィアの頬を、グロリアの人差し指が撫でる。
ゾフィアの額には冷や汗が浮かび、表情は首に剣を突き付けられているかのように緊張していた。
ノアはこの状況に息を飲む。グロリアが出てくるのは予想の範疇だったが、グロリアの存在が――どう見ても幽霊にしか見えない存在が――普通に受け入れられていることに。
少し前までは猫の器に閉じ込められていたのに、最早軍人に命令ができ、恐れられる存在となっている。
グロリアが顔を上げ、こちらを見る。
「あら、黒のエレノアールじゃない! また己の不始末から逃げ出すと思ったのに、まさか戻ってくるなんて!」
わざとらしい驚きの声を上げて、にこりと笑う。
「こんにちは、白のグロリア。しっかりと地位を得ているようね」
「黒のほどではないですわよ」
不満げな表情で頬を膨らませる。
グロリアはゾフィアから離れると、ふわりとヴィクトルの前に舞い降りる。ドレスを両手でつまみながら。
「ごきげんようヴィクトル様。こちらの姿でお目にかかるのは初めてかしら」
少女のように微笑む。その声はヴィクトルにも聞こえているはずだが、ヴィクトルは何の反応も返さない。二本の剣をいつでも抜ける体勢のまま、動かない。
グロリアは微笑みを消し、ノアを睨んだ。食って掛かってくるかと思ったが、グロリアは気を取り直すように小さく喉を鳴らす。
「さて、黒の。陛下に忠誠を誓うのならば、わたくしが取りなしてあげてもいいですわよ? ちゃんと邪魔な方たちも消してくれて、手土産は充分みたいですし」
「ありがとう。でもどうするかは会って決めるわ」
「あらあら、反抗的な目ね。素直に頭を垂れて慈悲を乞えばいいのに。薬師風情が何ができるつもり?」
「そちらこそ、幽霊が何をしているのかしら」
「幽霊じゃないって言っているでしょう!」
吠えかかってくるグロリアに、ノアは少しだけ安心した。
帝都についてから訳のわからないことばかりだが、少なくともグロリアとは認識の齟齬は感じない。グロリアはノアの知る記憶の世界に生きている。そして当事者だ。
できるだけ情報を引き出したいところだが、相手はあのグロリアだ。
「マグナファリス先生はどうしているの? この赤い空は、この魔素はどういうこと?」
「知らないわよ! 黒のが知る必要もないわ!」
(やっぱりこうなるわよね)
相性がとことん悪い。
そうしている間にも、周囲には騒ぎを聞きつけた軍人が少しずつ集まり、包囲網を狭めてくる。ゾフィア以外は既に剣を抜き、切っ先をこちら側に向けている。
グロリアに操られているのかと思ったが、正気を失っている様子はない。正気でグロリアに従い、こちらを捕らえようとしている。
「どうするの、黒の。相手はただの人間よ。職務に忠実なだけの軍人を殺せるのかしら」
グロリアは勝ち誇ったように笑う。
ノアが手を出せないだろうと思っているし、もし出しても面白いことになると思っているのだろう。
「さあ、その不届きな女を捕らえなさい!」
高らかに命令し、ふわりと浮いて前線から下がる。軍人の包囲網を壁代わりにしたのは、こちらの攻撃を警戒したからか。
張りつめた空気の中、ヴィクトルはまだ剣を抜かず、ノアを守るようにして立っている。
軍人たちがいまだに踏み出してこないのはヴィクトルを警戒してのことだろうか。いまのところ正体に気づいているのはゾフィアだけのようだが、踏み込ませない雰囲気がヴィクトルにはあるのかもしれない。
――風は背後から吹いている。
「早くなさい。その女を捕まえたものには、陛下より勲功をいただけるわよ。生死は問わないわ」
痺れを切らしたように煽る。
だがそれでも誰も踏み出さなかった。
その代わりのように身体をふらつかせ、その場にぱたぱたと崩れ落ちていく。深い眠りに落ちながら。
「な、なに?」
「幽霊にはわからないでしょうね」
風上から強力な眠り薬を流したことは、嗅覚のないグロリアにはわからないだろう。
これで起きている軍人は背後のひとりだけだ。そのひとりにも首筋に導力を当て、神経を揺らして気絶させる。
今回は準備をする時間があったので、当然想定できるあらゆる事態に備えている。
呪素ナイフを取り出す。魂を喰らう呪素を固めた、黒いナイフ。他人に当たると大事なので投げるつもりはないが、グロリアに対する脅しにはなる。魂だけの存在にとって、呪素は死神の鎌だ。
グロリアの姿が消える。
逃げられたかと思った瞬間、ヴィクトルが動いた。倒れたゾフィアを飛び越え、高く飛び何もいない虚空を剣で斬る。
悲鳴が上がり、剣が斬り裂いた場所からグロリアの姿が現れる。身体の半分が消えた姿で。
残った半身も、黒い呪素に蝕まれ始めていた。グロリアは半狂乱で呪素から逃れようと蠢いていた。
ヴィクトルの二本の剣の内、一本はノアが呪素でコーティングをした剣だった。賢者の石の失敗作を塗ったナイフに使われていたコーティング技術の応用だ。
高位精神体のグロリアや超越者、ホムンクルスを相手にしたときの対策だった。
鞘にも呪素が漏れ出さない細工をしていたので、グロリアは斬られる直前まで気づかなかっただろう。
いまも何故斬られたかよくわかっていないかもしれない。ノア自身、ヴィクトルが何故見えない状態になったグロリアを斬れたのかはわからない。
ヴィクトルだけに感じ取れるものがあったのかもしれない。
「た――助けて! 助けてエレノア! わたくしが悪かったわ!」
ノアはグロリアの呪素の侵食を止める。あくまで止めただけで、消しはしない。
「もう一度だけ聞くわ」
「マグナファリスなら死んだわよ! わたくしが陛下を正気に戻して差し上げてすぐにね!」
ヴィクトルはグロリアの眼前に剣の切っ先を突きつける。
グロリアの金色の瞳が怪しく光る。ゆらりゆらりと、夜の迷い火のように。
「ふ、ふふふ……わかったわ……よろしくてよ、協力してあげますわ。わたくしとあなたの仲ですもの」
「……ええそうね。グロリアのことは、もちろんわかっているわ」
その愛と情の深さを。ノアは良く知っている。
――グロリアは『陛下』を決して裏切らない。
協力は有り得ない。どうせすぐまた牙を剥く。あとはグロリアを呪素に喰べさせれば、この場は終わる。
なのに、指先が躊躇する。精神体を呪素に喰べさせるということは、殺すということに他ならない。
思い出すのは、いつも周りをからかって遊んで笑っていた、わがままな女王様の姿。
錬金術師は偏屈者が多いものだが、誰にでも絡んでいっていた、寂しがり屋の女王様の姿。
「…………」
剣が動いた。
ノアの迷いを断ち切るように、剣はグロリアの顔を真っ二つに斬り裂く。
呪素は両方の断面からあっという間に魂を喰らい尽して、消えた。
そしてノアは知った。魂にも死は存在することを。消えるときは死ぬときと同じように、驚くほどに呆気なく、そして相手の心に痛みを残すことを。
「グロリア……」
呼んだ名前は、その持ち主に届くことはない。
永遠に。






