6-32EP 新たなる幕開け
ノアはアニラがトレイを下げて出ていくのを見送ると、再び部屋を出た。
芯まで温まった身体で、今度はヴィクトルの書斎に向かう。在室かどうかはわからないが、なんとなくそちらにいるような気がした。
しかし扉の前まで来て、ノックをする段になって身体が動かない。扉はぴったりと閉じられていて、中の光は漏れ出てこない。
(どうしよう……)
いままではなんとも思わなかった扉が厚い。分厚さに心が折れそうになる。ノックをしようとした手が動かない。
その手を下に降ろして踵を返そうとした時、扉が慌てたように中から開いた。
焦り顔のヴィクトルと、扉の中と外で顔を合わせる。
急いでいるのかと思って避けようとしたのに、ヴィクトルは扉の位置で固まって動かない。
視線だけが合ったまま、時間だけが過ぎていく。
「こんばんは……」
それしか言葉が出てこない。
「……もう大丈夫なのか」
「あ、うん。もう少し休めばいつもどおりになると思う」
短い言葉を交わした後は、また沈黙が続く。
何かを話そうとしても、頭が真っ白になって言葉が出てこない。そもそも何を話そうと思ってここに来たのかが、思い出せない。
「えっと……それじゃあ」
気まずさから逃げようとしたノアの前の前で、ヴィクトルがその場に片膝をついて跪いた。
「ど、どうしたの」
具合が悪くなったのかと焦って近寄る。
「改めて、いままでの非礼を詫びたい」
「わ、わかったから。ちゃんと聞くからとりあえず立って、中に戻って」
とにかくこんなところを誰かに見られるのは良くない。ノアはヴィクトルの手を引いて部屋の中に入り、扉を閉めた。
背の高い大人の男性の手を引いて歩くのは、不思議な感覚だった。いつも大きく見えるのに、今日はなんだか小さく見える。そのままソファまで誘導して、座らせ、自分も隣に座る。
「それで?」
顔を覗き込み言葉を促すと、ヴィクトルは視線をわずかに外しながら、しかしこちらを見たまま口を開く。
「監視していたつもりはなかったが、そう取られても仕方がないことをしていた。すまなかった」
「そのことならもう怒ってないわ。それに、必要なことだったんでしょう? 確かに私も自由にしすぎていたし、話していないこともあったし……迷惑ばかりかけてる……」
怒っていたのが筋違いなほど。
言えば言うほど、自分の方が悪かったことに気づかされる。
「ごめんなさい」
謝罪の言葉が自然と零れ落ちる。
「私はやっぱり、ヴィクトルには――」
自己嫌悪に傾いた言葉は、手を握る力によって遮られる。
思わず顔を上げ、手を握ってくる相手を見つめる。青い瞳が真っ直ぐにノアを見つめていた。
「出会った時のことを覚えているだろうか」
「えっ、うん……もちろん」
忘れられるわけがない。あの日は、ノアが三百年の長い眠りから覚めた日でもあった。ヴィクトルの傷を癒し毒を分解し、病を治した。
「あなたと出会い、助けられた時……どんな手を使っても、離してはならないと思った。妹のため、領地を守るため、帝都の貴族に対抗するため……。だがきっとあの瞬間から、あなたに惹かれていた」
握られた手が、熱くなってくる。ノア自身の熱か、ヴィクトルの熱か、判別はできない。
「あなたが、錬金術が使えなくなったからと姿を消した時、目の前が真っ暗になった」
――その時のことも、よく覚えている。
自分の価値がなくなったと思って、この場所から逃げ出した。
「傷ついたあなたを見た時は、己の浅はかさを恥じた。自身に対する怒りが収まらかった。その時ようやく自覚したのだ。この気持ちを。あなたが好きだと」
瞳の星のような輝きに吸い込まれていく。
「ノアは、私にとっての光だ。あなたのいない世界にはもう戻れない」
――熱い。
全身が熱い。触れ合う場所が、胸が熱い。燃えるように。
焼け焦げてしまいそうなのに、それでいいと思ってしまう。離れたくない。
「私は……これからも変わらないわ。勝手に動き回ると思うし、きっとたくさん迷惑もかける」
「ああ、構わない」
どうしてそんなに嬉しそうなのか。
「あなたの喜びが、私の喜びだ」
「……私も」
ヴィクトルの肩に額を寄せる。
これ以上目を見ていたら、これ以上満たされてしまったら、どうなるかわからない。心臓はずっと壊れそうなくらいに脈打っていた。
「全部許します。私の方こそ、ごめんなさい。またここに帰ってきてもいい?」
「ここがあなたの家だ」
「ありがとう……でももう、見張るのはやめてね。私にも見せたくないこともあるの」
「あ、ああ」
少しずつ落ち着いてきて、ようやく思い出す。何のためにヴィクトルに会いにここに来たのか。
――帝都に一緒に来てほしいと言おうとしていたのだ。一人で行くのが怖くて。
言えばきっと、二つ返事で受けてくれるだろう。だからこそ言えない。
(こんな危険なことに巻き込めない)
思い直せてよかった。きっと怒るだろうけれど、やはりヴィクトルを巻き込むわけにはいかない。
明るくなってから隙を見てバーミリオン卿に頼むと決める。飛竜の翼には誰も追い付けない。
「ヴィクトルはこれからどうするの」
念の為に今後の予定を聞く。
「すぐにでも帝都の様子を見に行こうと思っている。バーミリオン卿の翼を借り受けたいのだが、いいだろうか」
「む、無理!」
思わず顔を上げる。真っ直ぐな瞳がすぐ近くにあった。
「何故だ」
何故も何もない。無理なものは無理だ。
「まずは私が軽く見てくるから、ヴィクトルはアリオスで待ってて――」
「ノア、これは私がするべき事だ。帝国で起こっていることを見定め、次の手を打つ。それが私の責務だ。あなた一人に押し付けることはできない」
ヴィクトルの表情は真剣そのものだ。
うまく説得できるような言葉が浮かんでこないノアは「無理」と首を横に振ることしかできない。
「ならば同行させてほしい」
「それも無理」
「何故だ。危険は承知の上だ。だからこそ、一人で行かせるわけにはいかない」
このままでは流される。握られたままの手を振りほどこうとしたが、ぴくりとも動かない。
「あなたの邪魔をするつもりはない。ただ、守らせてほしい」
手をぎゅっと握られる。離れない。離せない。
このままでは流される。無条件降伏になる。
「条件があるわ!」
気づけばそう叫んでいた。
「自分のことを一番大切にして。危ないときは逃げて。それが条件」
「ああ」
苦し紛れに出した条件に、ヴィクトルはやや間を置いてから嬉しそうに頷いた。少年のように目を輝かせて。
(やっぱり早まったかもしれない……)
第六章 了。
これにて第六章完です。ここまで読んでくださり本当にありがとうございます。
ブクマや評価、感想も本当にありがとうございます。
最終章は11月25日から毎日更新予定です。
最後までよろしくお願いします。






