1-15 甘い蜂蜜酒
どうしてこんなことに。
ヴィクトルの書斎でふたりきりで飲むことになり、自問する。断るつもりはなかったが、実現するとおかしな状況だ。
昔から人間関係の距離感がうまくつかめないでいるとは言え、いまや本当に誰にも頼れない状態になってしまったから、自分のことは自分でなんとかしないとならない。
(私とヴィクトルの関係とは?)
ソファに座り、ノアに酒を用意してくれているヴィクトルを眺めながら、真面目に考えてみる。
ノアはヴィクトルの部下でも領民でも、ましてや帝国人でもない。遠い親戚と考えるには遠すぎる。一番近いのは、錬金術という商品を売る商人と、その顧客候補の貴族になるのだろうか。お互いを利用し合う関係、それでいいのでは?
それならばわかる。
礼は尽くさなくてはならないと。
名前を呼び捨てにしたり、遠慮のない扱いをしてはいけない。そもそも彼の方がおそらく実年齢は上。年上男性に対する礼儀で振舞えばいい。
透明で安定感のあるグラスが前のテーブルに置かれた。注がれているのは琥珀色の液体。
「おいしい」
蜂蜜酒だ。
アルコールの濃度は薄め。口当たりがやわらかく、軽いのにコクがあって、ほのかに甘い。いくらでも飲めそうなほどに。
それがゆっくりと緊張を解きほぐしてくれていく。
蜂蜜酒を飲み進めながら、正面に座るヴィクトルを見つめた。
「ふたつ、質問をしてもいいですか」
「ああ」
「どうして私にあの薬を使ったのですか?」
ヴィクトルに渡した万能薬は本当に貴重なものだった。ノアはあれを作れたから国家錬金術師として認められたのだ。
材料は竜の血と精霊姫の涙。国宝級の貴重な素材だ。完成したのは二回分だけ。一本は国に提出し、一本は自分のものにした。
きっともう二度と作れない。
「そうしなければならないと思ったからだ」
迷いなく答える。
「元の持ち主はあなただからな」
「あれはヴィクトル様に差し上げたものでした」
「あの時は他に何も考えられなかった」
確かにあの状況で、何もせずにノアを見捨てるような人ではない。立場が逆だったとして、目の前に死にかけている人がいて、助けられるかもしれない手段を持っていたら、迷いもせずに使うだろう。
痛む。
罪悪感で心が痛む。
(私の浅はかな行動が、貴重な薬を失わせた……)
おとなしく城に運ばれてから反撃していれば。もしそうしていればどうなったかなんて、誰にもわからないのだけれど。
おそらく燃料切れはどこか起こっただろうが、あそこで落下死寸前になっていなければ、薬は失われなかったかもしれない。
後悔してもどうにもならない。時間は戻らないし、薬は二度と作れない。
蜂蜜酒のゆらめきを眺める琥珀色の酒は燭台の光を受けて、本物の金のように輝いていた。
「……時間がないとはどういうことですか」
王都で、なぜこんな無茶をしたのかと聞いたときの返答。これもずっと気になっていた。
「ふむ……」
ヴィクトルは逡巡しているかのように黙る。
沈黙は長くはなかった。自嘲的な笑みを零し、酒を一口飲み込む。どこか苦そうに。
「私の身体は病魔に侵されていて、もう長くないと言われている」
「あ、それ治してます」
「……なに?」
「最初に怪我を治したときにサービスで。だから大丈夫。おじいさんになるまで生きられます、たぶん」
普段は人体修復をしてもそこまでしないのだが、あの時は勢いに任せて。かなり死にかけていたので奥の方まで意識を巡らせたこともあって、追加の治療がしやすかった。
だからついつい全部治してしまった。
ヴィクトルは頭を抱える。
「道理で、やけに身体が軽いと……」
「それは良かった」
ちゃんと治療の効果が出ている。これ以上の喜びはない。
「……どうやってこの恩を返せばいいのか」
「もう返していただいています。これからも元気に生きていてくれれば充分です」
「それでは釣り合わない」
「大丈夫です。いいバランスです」
時間がないと思っていたから、死ぬ前に不死の霊薬を手に入れようとして、単独で王都に行ったのだろう。
おそらく病気のことは伏せていたから、誰にも言わずに。
重い病気に罹っていることがわかっていたのなら、ノアに自分のことを治すように言わなかったのも、信用していなかったか、弱みを握らせないようにしたのかもしれない。
慎重なのはいいことだけれど。
(ひとりで抱え込むタイプ)
ヴィクトルはきっと、なんでもできるし、民の期待にも応えられる。立派な領主で貴族で英雄で。鋼のような精神で己を律している。
器用に見えて、本当はとても不器用なのかもしれない。
聞きたいことは、これで二つ。
本当はもうひとつだけ聞きたいことがある。
どうしてノアに謝ったのか。
万能薬を飲ませた後に、なぜ。
(たぶん聞かないほうがいい)
ヴィクトルの感情はヴィクトルだけのものだ。暴くような無粋をするべきではない。
「ヴィクトル様は、私に聞きたいことはないのですか」
「そうだな……なぜ誰にも言わずにここを出ていったのか、教えてもらっても構わないだろうか」
「うっ」
喉が詰まる。まさかそこを突かれるとは。
居心地の悪さを蜂蜜酒を飲み下す。
「私、引きこもり気質なので。一人になりたかったんです」
「そうとも見えないが」
「いちおう大昔に王妃教育は受けましたので。全部台無しになりましたけど」
礼儀作法に社交術は勉強した。婚約破棄になってすべて無駄になり、反動も大きかったが。
(あっ)
余計なことを口にしたことに気づく。こんなことを言えばアレクシス・フローゼンとの因縁が浅からぬものだと教えるようなものなのに。
「忘れてください」
ヴィクトルは驚く様子もなく苦笑している。
「ならば、もう二度と黙っていなくならないと約束してもらいたい」
「……はい」
己の浅はかさが嫌になる。でも確かにあれは礼儀を欠く行為だった。
あの時はいっぱいいっぱいで、逃げて帰って安心できる居場所を、自分の家をつくることしか考えていなかった。
置いていかれた人たちの気持ちを考えていなかった。
(幼稚すぎる)
苦い気持ちを蜂蜜酒で飲み下す。
「ところで、もう呼び捨てにしてはくれないのか」
吹き出しそうになった。
いったい何を言い出すのか?
もしかしてこれが二つ目の質問?
「あれはその、緊急事態下の興奮状態での勢いというか――」
「あんな風に呼ばれるのも、怒られるのも新鮮だった」
嬉しそうに何を言っているのかこの男は?
適切な距離感とは?
それでも、なんとなく、酔ってしまったから。
甘い蜂蜜酒に酔ってしまったから。
「……ヴィクトル」
つい応えてしまった。
ヴィクトルは一瞬だけ驚いたような顔をして、深い笑みを浮かべた。
その姿がかわいいと思ってしまったのも、きっと酔ってしまったからだろう。
うつらうつらと、意識が朦朧としてくる。酔いが眠気を呼んだのか。頭の奥がぼうっとして、思考がまとまらない。
「部屋まで送ろう」
「うん……」
まだ蜂蜜酒が残っているグラスを置いて、立ち上がる。
書斎を出て廊下を歩いていても、いまいち地に足がつかない。地面がやわらかく揺れているようだ。
「失礼」
軽く抱き上げられ、ヴィクトルに運ばれる。ふわふわとした感覚は、まるで空を飛んでいるみたいだ。
――空を飛ぶ?
――落ちる?
怖くなって近くにあったものに無我夢中でしがみつく。
動きが止まって浮遊感が薄くなって、安堵した。
「安心してくれ。落としたりはしない」
「絶対?」
「ああ、絶対だ」
絶対なら安心だ。しがみついていた力を緩め、身体を委ねる。また、ふわふわとした感覚に包み込まれるが、今度は怖くなかった。
部屋に戻り、ベッドに横たわらせられる。
「ありがとう……ねえ、どうしてやさしくしてくれるの」
寝ころんだまま、すぐ近くにあるヴィクトルの顔を見つめる。
「あなたには三度命を救われた」
「そんなに?」
初対面の時の一回と、病気を治したことと。あと一回はいつだろう。
ヴィクトルは返事の代わりに笑いながら、ノアにシーツと毛布をかけてくれる。
「あなたのことを生涯守ると誓おう」
「重い」
本音が口から飛び出す。
「そんなの、お互いさまでしょう?」
貸しとか借りとか、そんなものいちいち数えていられない。借りたものは覚えていても、貸したものはそんな自覚もない。
眼の前に死にかけている人がいるから助ける。困っている人がいるから助ける。当たり前のことだ。
大きな子どもの頭を撫でる。
大丈夫、と心を込めて。
「おやすみなさい、ヴィクトル」