6-26 再会と謝罪
公爵軍の約二百人の部隊は、フローゼン領東端の平原で壊滅した。
未来に歴史家がこの記録を見たとき、どう判断するのだろうか。疫病、災害、同士討ち。八つ足の巨大な馬が暴虐の限りを尽くしたと記しても、おそらく誰もが何かの暗喩だと思うだろう。
地獄を生み出したスレイプニルは消えた後に残ったのは、空の美しさと対照的な凄惨な大地。
無事な兵士はほとんど残っておらず、文字通り壊滅だった。
すべてが終わり、静寂が戻る。
黒い鱗の飛竜――バーミリオン卿はスレイプニルが消えた場所に座る。その傍らには、人がいた。背の高い、銀髪の男性。
遠くからでも見間違えるはずのない姿だった。
「ヴィクトル……」
その名の持ち主は飛竜の背から飛び降りて、スレイプニルの頭を槍で貫いた。この平原に生き残っている人間のほとんどが、その姿を見ただろう。
ヴィクトルは飛竜の元からノアの方に向かって歩いてくる。
すぐ近くにいたファントムが、ゴーレムの鼻先の方向をくるりと変えた。
「待って」
逃げようとするファントムを呼び止める。その瞬間、ファントムは身体を小さく震わせ、右の方を指さした。
「あっ! あれは――!」
「えっ?」
つられて右に視線を向けるが、何もない。
それと同時にファントムのゴーレムが一気に速度を上げて森の方へと駆けていく。ファントムのゴーレムは早い。もう、走っても追いつけない。
――逃げられた。こんな単純な手で。
情けなさに肩を震わせるノアの背後に、ヴィクトルの気配が近づいてくる。
(どうしよう……)
あんな風に別れを告げて出て行ったのに。
どんな顔をすればいいのか。ヴィクトルはどんな顔をしているのか。顔を合わせるのが怖い。
「ノア」
名を呼ばれ、息を止めながら振り返る。きっととても情けない顔をしている。
そしてヴィクトルの姿を見て、言葉を失った。
口元には血を吐いた痕跡。
あちこち裂傷があり、腫れ上がり、痣ができている。服には血が滲み、骨が何本も折れている。
まさに満身創痍だった。
何もかも忘れて駆け寄り、ぼろぼろの身体を抱き支える。
ノアの後方にある森には、弩砲を持ったルスラーン公子が隠れている。
――公爵側としては、ヴィクトルの首を取るのが一番の目的だ。皇帝を殺した叛逆者で、皇太子を誘拐したヴィクトルが死ぬことが。
急いで浅い穴を掘り、塹壕をつくる。
まさかこちらに向けて弩砲を撃ってくることはないだろうが、念のために。
ひとまずの安全を確保し、ヴィクトルを座らせる。
その間もずっと、優しい風がバーミリオン卿から吹いていた。
「この怪我はどうしたの?」
怪我を治療しながら聞く。
見ていた限り、ヴィクトルはスレイプニルからは攻撃を受けていなかった。頭に槍を突き刺した後も、いつものように無事着地していると思っていた。
こんな怪我をしているなんて想像もしていなかった。
「大したことはない。バーミリオン卿を起こすときに少し強引な手を使ってしまい、怒らせてしまっただけだ」
(なんて無茶を……!)
血の気が引く。寝ている竜を無理やり起こすなんて。
「それ、だいじょうぶ? お屋敷壊れていない?」
「…………」
(壊れてる! 絶対どこか壊れてる!)
帝都の公爵家での、バーミリオン卿のホムンクルスとヴィクトルの戦闘を思い出す。あの時は中庭が壊滅していた。同じような惨状になっていることは想像に難くない。
それだけの犠牲を払って、こんな怪我を負いながら、ヴィクトルはバーミリオン卿の助力を得て、ここに来た。
巨大な八本足の馬にも臆することなく、あんな高い場所から槍を持って飛び降りた。こんな、傷だらけの身体で。
「……すまなかった」
「え?」
「あなたを傷つけた」
「でもそれは……」
錬金術師なんて危険人物に対する監視は当然のことだ。ヴィクトルが謝ることではない。
ヴィクトルの選択は、どれも間違っていない。
「いかなる理由があれ、事実は変わりない」
目が合う。
ずっと合わせられなかった目が、青い瞳が、すぐ近くにあった。
青い星のような瞳だ。静けさと叡智と、苛烈さを奥に湛えているような青。その輝きは人を導き、やがて自身をも焼き尽くす炎。
「それでも、私にはあなたが必要だ。どうか、戻ってきてほしい」
懇願の声に思わず頷きそうになる。
ノアはきつく目を閉じ、自分自身に問いかけた。
(戻る……? 私は、戻りたい?)
答えはすぐに出る。考える時間は必要なかった。
(まだ戻れない)
カイウスのことに決着をつけるまでは。
ノアの中で決着がつかなければ、今後のことは考えられない。
フローゼンの錬金術師でなく、フローゼンの魔女ではなく、ノアとしてでもなく――エレノアール・エリンシア・ルーキスとして。
王国の国家錬金術師として、マグナファリスの教え子として。カイウスの伯母として、エミリアーナの姉として。
見届けなければならない。そうしなければ、一歩も前に進めない。
瞼を開き、真っ直ぐにヴィクトルの瞳を見つめる。
「助けてくれてありがとう」
顔を上げ、少し遠くで座っているバーミリオン卿に視線を向ける。
「バーミリオン卿もありがとうございます」
《うむ》
ゆったりとした答えに笑みが零れる。
再び、ヴィクトルと向き合う。
「ヴィクトルの気持ちは嬉しい。あなたの力になりたい気持ちは、いまも変わらない」
ヴィクトルの立場は理解している。
領主として、ヴィクトルは何一つ間違ったことはしていない。今回のこの行動以外。眠れる竜を起こして怒りを買い、伴も連れず単身ここにやってきたこと以外。
そしてその『間違った行動』を、どこかで嬉しいと思ってしまっている自分もいる。
(最低だ)
すべての傷の治療が終わり、手を離す。名残惜しさと罪悪感を覚えながら。
「でも、ごめんなさい。私にはするべきことがあるから、まだ戻れない」
言いながら思う。ちょうどいい機会だったかもしれない、と。
こんな形でだが、戦争の脅威はひとまずは去った。いまこそ自分のするべきことを行う時だ。
「ならば共に行こう」
「いやそれは、ヴィクトルに何かがあったら、私――」
「守る」
手を握られる。その感触に息が詰まる。
「あなたのことも、自分自身のことも。だから、共にいさせてくれ」
指に唇が触れる。
誓いを立てるような口づけに、もう何も言えなくなってしまった。






