6-21 復讐を望む心
ひとまず地下から出ようとしたところ、上から足音が響いてくる。
下りてきたのは白髪の線の細い少女――トルネリアだった。
「トルネリア、ただいま」
トルネリアはノアの姿を見て、微笑む。
「仕事が早いな。そして予測がつかんことをする……ともかく無事で良かった。さて、これからは自由にさせてもらうぞ」
トルネリアは決意を秘めた険しい表情に戻ると、ファントムの入っている牢の前に立つ。
腰に差している、薬草を手入れするためのナイフを手に取り、ファントムに突き出す。鉄格子を挟んで。
黒い刀身が地下を照らすランプの明かりを受けて、鈍く光った。
「母を殺した者を教えろ」
「トルネリアの御母上をかい? 僕は知らないな」
突きつけられたナイフの切っ先を眺めながら、ファントムは困ったように肩を竦める。
少なくとも、誤魔化しを言っているようには見えなかった。
「では、お主に呪いをかけた者を教えろ」
ナイフよりも鋭い声が響く。
トルネリアが本気になれば、ナイフよりも強い力でファントムを脅すことができる。錬金術を封じられているファントムには対抗するすべはない。
ファントムは本気で困ったように、眉尻を下げて懇願の眼差しでトルネリアを見上げた。
「契約で言えないんだよ」
「なれば、あのルスラーンとかいう男だな」
黙ったまま、誤魔化すように笑う。それは肯定だ。
トルネリアは無言でナイフを下ろし、腰の鞘に刃をしまう。白い髪をふわりと翻し、ファントムに背を向けた。
「復讐かい?」
ファントムは小さな背中に声をかけ、振り向かせる。何重にも響く低い声で。
「もし、そうだとしても。あの方は覚えていないよ。殺した虫の数を覚えている人がいるかい? あの方にとっては、高位貴族以外は虫同然なんだ。もちろん僕も、ただの手駒」
トルネリアは興味なさげにファントムから視線を外す。
「気をつけるといい。あの方は恐ろしい人だ。君の行く道に幸あらんことを」
##
「トルネリア、待って!」
地上への階段を上っていくトルネリアを、追いかけて、手首をつかんで引き留める。
振り返ったトルネリアは、いままで見たこともないような険しい表情をしていた。
「ルスラーンは、我の母の死に深く関わっているのは間違いない」
目が座っている。
赤い瞳を染めるのは復讐の炎だ。身を焼き尽くすような冷たい炎。
トルネリアの母は、殺されて、毒を奪われたという。トルネリアはずっとその犯人を探していた。そのためにアリオスに来たのだ。
「ファントムが罹っていたという呪いは、母が殺された時に奪われた毒の一つだ。ルスラーンはその毒であやつや他の者どもを従えているのだろう」
忌々しそうに吐き捨てる。
「我に殺させろとは言わん。侯爵にとっても妹の仇であろうからな。早い者勝ちだ」
冬原の氷よりも冷たい声に、身を切られそうになる。
この決意を止める方法を、ノアは持っていない。それでも、この細い腕の持ち主を離すことはできない。ノアはトルネリアに命を助けられた恩がある。病を治してもらった恩がある。
「わかった。でも、私も一緒に行くから。ひとりで行かないで」
「…………」
トルネリアの眉尻がぴくりと跳ねる。
「お主が来て何ができる。また助けるつもりか。公爵のように」
苛立ちにまみれた声が耳を突き刺す。それでも手は離さない。
「トルネリアを守る。あなたの邪魔はしない」
トルネリアは憮然としたまま、ノアの手を振り払う。
「……お主といると調子が狂う」
怒気はわずかに和らいでいた。しかし瞳に宿る決意の強さは変わらない。
「そちら側にも計画があるだろうから、戦闘になるまでは待ってやる。だが、戦闘状態になれば、我は真っ先にルスラーンを殺しにいくぞ。覚えておけ」
頷く。
復讐に駆られていても、トルネリアは冷静さを失ってはいない。
「――あと。ひどい顔だ。少しは眠れ」
そう言ってくれたトルネリアの髪から、少し甘ったるい良い香りがした。
トルネリアに忠告された通り、ノアは部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。
眠い。凄く眠い。
地下から出てきてからというもの、眠気に抗えないほど眠い。そういえば、昨日から一睡もしていない。一徹なんていつものことなのに、いまは何故かひどく眠い。
横になり、清潔なシーツの感触を味わいながら、眼を閉じる。
睡眠に落ちながら頭に思い浮かぶのは、トルネリアとルスラーン公子のことばかりだった。
トルネリアの推測通りなら、ルスラーン公子はトルネリアの母を殺して奪った毒で、ヴィクトルの妹ベルナデッタを蝕ませ、死に至らせた。
それが事実なら、ルスラーン公子は、ヴィクトルにとって妹の仇であり、トルネリアにとっては母親の仇だ。
ファントムはトルネリアにそう思い至らせるために、わざわざトルネリアの前で呪いの話をして、自分がかけられていた呪いのことを教えたのだろうか。
何故そんなことを言うのか、あの時は不思議に思ってはいたが。
(ルスラーン様に憎悪を向かわせるため……?)
そう考えるとしっくりくる。
(悪意に飲み込まれるわけにはいかない……)
誰が誰を憎んでいて、陥れようとしているのか。
闇が深すぎて、気を抜けば己を見失ってしまいそうだ。
飲み込まれてはいけない。踊らされてもいけない。道を間違えないために。
空が赤く染まるころ、ノアはようやく目を覚ました。よほど疲れていたのか、思ったよりも長い時間、寝てしまった。
夕食まで時間がある。部屋を出て、中庭の先にある研究所に向かった。トルネリアの様子を見るために。
満腹になって眠っているバーミリオン卿の横を通り、製薬所を兼ねる研究所へ向かう。白い二階建ての建物へ。
侯爵邸にはトルネリア用の客室も用意されているが、基本的にこちらで寝泊まりしている。
玄関の扉を開けると、中は薬草の濃い匂いに満たされていた。ホールを通り、二階への階段を上る。
ここに来ると、自分の家を思い出す。
錬金術師として独り立ちして森に建てた家を。昔はよくあの家に籠もって薬の調合や研究をしていた。一度崩れて、小さく作り直したが、随分長い間帰っていない。大切なものは侯爵邸内に移してあるとはいえ。
二階の一番奥の部屋へ向かう。トルネリアが普段生活している部屋に。
――部屋の主はいなかった。
(出かけているのかな)
主のいない、薬草や鉱石の並ぶ部屋を眺める。錬金術師の研究室というのは何故か似通う。やや乱雑ながらも根底には秩序がある。
しかし今日は秩序よりも乱雑さの方が強かった。
急いで支度をして飛び出したかのように、少し荒れていた。ソファの上には毛布と着替えが放り出されている。
ただ一か所、きれいに片付けられた机の上には、ノアが渡したホムンクルス資料が大切そうに置いてあった。
「…………」
表紙に指で触れた瞬間、ざわっと、首の後ろが冷たくなる。
(あの眠気……あの香り……もしかして、眠らされた?)
ノアはすぐさま研究所を出て、侯爵邸の地下牢へと走った。
嫌な予感がする。とてつもなく、嫌な予感が。
 






