6-20 侯爵邸の地下
公爵の休む屋根裏部屋から外に出ると、廊下にヴィクトルが立っていた。
最初から聞いていたのだろう。
「肺に呪素が溜まっていたわ。ファントムさんと同じ症状」
階段を下りながら、治療した内容を話す。
「全部取り出したから、回復に向かっていくはずよ。あれほど老けてしまっていたのは、心労と病気のせいでしょうね……どうしたの?」
ヴィクトルが笑っているのが気になって、思わず聞いてしまう。
「あなたらしいと思っただけだ」
やさしい声に、顔が熱くなる。気恥ずかしさで、思わず視線を逸らしてしまう。
なんとか態度を繕って、話を続ける。
「ファントムさんは病のことを、呪いと言っていた……人為的な病か毒なんでしょうね」
正確には『トルネリアの呪い』だが、誰に聞かれるかわからない状況でトルネリアの名前を出したくはなかった。
「誰の仕業かは、想像に難くないな」
明言はしないが、ノアも同じ考えだ。一番近い存在で、一番動機があるルスラーン公子が関わっていないとは考えにくい。
「聞こえていたと思うけど……公爵は、カイウスにひどく怯えていた」
その存在に。
カイウスはおそらく、公爵がずっと蓋をしていた野望の箱を開いた。言葉ひとつで。その手腕はグロリアに似ていると思った。
カイウスは帝都で、何をするつもりなのだろう。
「あなたが行くときは、私も一緒だ」
「……怖くはないの? 私は少し、怖い」
「私が一番怖いのは、あなたを失うことだ」
その言葉は、冷たくなっていた指先を瞬く間にあたためる。
できれば巻き込みたくはない。けれど。ひとりではきっと、怖くて進めない。
「――ところで、昨夜クオンが不審者を捕らえたらしい」
屋根裏部屋へと続く階段を下りきったところで、ヴィクトルがそう言った。
不意打ちの事実に口から心臓が飛び出しかける。
ヴィクトルは笑顔だ。笑顔のまま、ノアを見つめている。
「ノアの客人と言い張っているようだが、心当たりはあるか?」
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侯爵邸の地下には、地下牢がある。
四つある牢の内の一番手前の牢の中に、ファントムが座っていた。簡素なベッドに背を預けて。
「ひどいよねぇ、何もしてないのにねぇ」
陰鬱な雰囲気の中、鉄格子の前に立つノアに、ファントムは苦笑しながら手錠の鎖を鳴らす。
――錬金術師殺しの手錠。錬金術を封じる枷をつけられて。
どこで警察装備を手に入れたのだろう。帝都で、しかない。ツテはある。公爵側の錬金術師に対抗する手なのだろうが、ノア自身、それは少し怖い。
錬金術を封じられたらどれだけ無能なのかは自覚がある。
「本当に何もしていないの?」
距離を置き、鉄格子を間に挟んだまま問う。
「少し屋敷の中を歩いていたらこの様さ」
ファントムは緊張感なく笑う。
ノアはあの後、書斎に連行されてヴィクトルに全部白状させられたというのに。
ルスラーン公子に公爵暗殺を依頼されたとき、成功報酬にファントムの身柄を求めたら案内役として付いてきたこと。
話を聞くために部屋に入れたこと。
本当はちゃんと言うつもりだったが、本人が拒否して逃げたこと――
ヴィクトルは怒ってはいなかったが、かなり怒っていた気がする。
もう二度と部屋に家人以外は招かないと、当然すぎる約束をさせられただけで済んだが、次があればどうなるかわからない。「私はあまり寛容な方ではない」と釘も刺されている。
「侯爵家に迷惑はかけないとか言っていなかった?」
「そのつもりだったんだけど。さすが元デルフィークの暗殺者だよね」
手錠の鎖がカチャカチャと音を奏でていた。
「それにしても、置いていくなんてひどいじゃないか」
ファントムは悲しそうに笑う。
「それは、ごめんなさい」
悪いとは思っていたので素直に謝る。
「まあいいや。公爵様のお加減はどうだった?」
表情がころころと変わる。今度はお土産を待つ子どものような顔でノアを見上げる。
「少し疲れていらっしゃるけれど、健康よ」
「それはよかった」
まったく心のこもっていない表情。
緑色の瞳が剣呑に輝き、ノアを舐めるように見上げた。
「契約と違うんじゃないかな? 連れて帰ってくるなんてさ」
「いつまでに実行しろとは言われていないはずだけど」
「そこは空気を読んでくれないと」
「見えないものは読めないわ」
埒が明かないとわかったのか、ファントムは嘆息して石の天井を仰ぐ。
「意外だよ。君はともかく侯爵様はすぐに殺すかと思ったのに」
「どうして?」
素朴な疑問を口にする。
ファントムは虚を突かれたように目を丸くした。
「どうしてって……憎い仇敵だよ? 自分を何度も何度も破滅に追い込もうとした相手を、どうして生かしているのかな」
その可能性はノアも考えていた。
何の邪魔も入らない状況で対峙すれば、どうなるか。もしヴィクトルが手を下そうとしていたら、ノアは自分がどう動いていたかわからない。
それでも結局ヴィクトルは公爵を殺さなかった。人質としての利用価値の方を重要視したのかもしれないが、それでも、よかったと思う。
「知りたいのなら本人に聞いて」
「怖いこと言うなぁ」
――怖いのはどちらだろう。
ルスラーン公子も、ファントムも、ヴィクトルに公爵を殺させようとしている。
悪意と謀略の渦の深さに、ノアは大きくため息をついた。
誰も彼もが自分勝手だ。もちろん、ノア自身も含めて。
「――確かに、戦争が回避されるなら、手を下すことも考えていた」
ノアは静かに心情を吐露する。
公爵暗殺依頼を真剣に考えていたのは事実だ。
「でもやっぱり、私には無理だった」
人を助けることならいくらでもできる。どんな相手でも苦しんでいる姿を見過ごせない。
だが、殺すことはできない。これが、行動しての結果だ。
「誰も殺さないで、戦争を避ける方法を探すわ。謀略の駒にはならない。これが私の答え」
夢のような話だ。だが錬金術師は夢を現実にする力を持っている。いまこの力を使わなくてどうするのか。
この選択を後悔する日が来るかもしれない。それでも構わない。
「かっこいいなぁ。君は本当に強くて、底が知れない」
ファントムは少し寂しそうに、自嘲気味に笑った。
「ということは依頼は破棄だね。さて、僕はこれからどうしようか。任務を果たしていないのに帰れるわけがないよねぇ」
「……公爵は殺させないけど、必要なら首のレプリカを用意するわ」
全身をつくるのには時間がかかるが、一部だけならば可能だろう。ホムンクルス技術を併用すれば尚更。ただ、肉親を騙せるほどのクオリティでできるかは保証できない。
ファントムは頬を引きつらせる。
「さすが王国の錬金術師。そういう作戦をしたいのなら協力するよ?」
「あなたの主はルスラーン様でしょう?」
「マグナファリスの飛竜まで懐柔している王国の錬金術師に逆らうつもりはないよ」
本気なのか冗談なのか。
ファントムこそ底が知れないと、ノアは思った。地下牢に捕まっている状態で、どうして公爵を連れ帰ったことや、バーミリオン卿のことを知っているのだろう。
聞いてみると、ファントムは「飛び立つ飛竜を見たからね」とだけ答えた。
飛竜の存在と、ノアの不在、そしてここでの会話で情報を引き出さされた、ということだ。己の迂闊さを恥じる。
「ねぇ。ところでこれ、外してくれない? 何もしないからさ」
カチャリ、と音を立てて手錠をかけられた手を上げる。
「……私の一存では決められないわ」
「そんな。なんなら誓ってもいいよ。これからはフローゼン侯爵に仕えるって」
軽い。
「私に言われても困ります」
怒られたばかりで勝手な行動をすれば今度はどうなるかわからない。そもそもがファントムが自分の蒔いた種だ。
「しばらくその格好で反省してて」
「そんな……」






