6-19 フローゼンの魔女
「賢者の石があっても、王国は帝国に負けました。そんなものにまだ夢を見ているのですか?」
静かな屋根裏部屋に、ノアの声が響く。限りなく感情を削ぎ落した声が。
「夢ではない」
長い沈黙の後、公爵は力強く言い切った。紫の瞳が昏く光った。
「現実を見据えているだけだ。海の向こうからの脅威に対抗するためには、国内の結束と、強大な軍事力が必要なのだ」
その考えには同意できる。国内で争っている場合ではない。しかしそれをボーンファイド公爵が言うのは違うのではないだろうか。
それとも確固たる信念があって、事を起こしたというのだろうか。
「銃を見たであろう? あれは外から来た武器だが、瞬く間に世界に広がる。いま銃器を持って大軍で攻められれば、この帝国は崩れ去る。それだけは許されない」
「……そうですね」
「軍備を整えるまでの間に、賢者の石の力が必要なのだ。国を守るために!」
「…………」
「必要のない者たちを、せめて命だけでも役立ててやろうというのだ。慈悲に感涙し、帝国への忠誠を示し、己から命を差し出すべきだろう」
「必要がないと誰が決めたのですか?」
再び問いかける。
公爵には必要がなくても、ノアには必要な人たちだ。何の基準で必要がないと切り捨てられるのだろう。
「我が帝国に穢れた獣の血はいらぬ」
「……それは、残念です」
自分にだけ聞こえる声で呟く。
公爵の愛国心や民を思う心には、王国の血を引く人々は含まれていない。そしてそれを悪いことだとも思っていない。
――本能的な拒絶。
そうだとしても。
何年経ったというのだろう。
何百年経っても、何代世代が変わっても、変わらないのだろうか。
「正直なお言葉ありがとうございます。公爵様が皇帝になられれば、早晩崩壊しそうな、とても脆い国が出来上がりそうですね」
ノアは嫌味を込めて静かに笑った。
魔女と呼びたいとなら、魔女らしく振る舞ってみせよう。そう思って。
「帝国のためにも、いっそここで鳥にでも姿を変えて差し上げましょうか。鳥の姿で、好きなだけ己の天下を歌ってください」
もちろんそんなことはできない。器をつくって魂を移すだけならまだしも。
だがノアの脅しが実際に可能かもしれないと、公爵にほんの少しでも思わせられればこちらの勝ちだ。
既に立場的には圧倒的に優位だが、公爵にもそれを理解してもらいたい。己の立場を。
ぎり、と歯を噛む音が小さく響く。
「――フローゼンの魔女よ」
公爵は憤っていた。
強い怒りを込めて、鋭い眼差しでノアを――魔女を睨む。
「賢者の石を差し出せ。貴様が持っていることはわかっている!」
気持ちいいくらいにまっすぐな憤怒に応えて、正直に答える。
「どこで聞いたかは知りませんが、賢者の石の欠片は確かにアレクシス・フローゼンが持っていて、私が保管していました」
「だからそれを出せと言っておる」
「もうありません」
「……なんだと?」
乾いた声を絞り出す公爵に、ノアは平然と続ける。
「使ってしまいました。炎に焼かれたアリオスを救うために。雨を降らし、怪我人を治すために。そんな報告は、そちらに行っていませんでしたか?」
「馬鹿な……そんな、馬鹿な……」
がくりと肩を落とし、虚ろな目でそう繰り返す。最後の希望が断たれ、絶望の淵に立たされてしまったかのように。
ニコライ・ボーンファイド公爵の豊かだった金髪はいつの間にか色褪せて、強い憤怒が消えると共に、更に老け込んでしまっていた。
落胆と絶望。深い暗闇の中に落ちてしまったかのような姿で、ベッドの上に座ったまま、肩を落として背を丸める。哀れなほどに小さくなって。
ノアは屋根裏部屋の扉の前に立ったまま、その姿を眺めた。
「賢者の石は万能ではありません。使うと消えてしまう」
死んだ人間を生き返らせることもできない、不完全な力の集合体。
それがノアの知る賢者の石だ。
知らないとはいえ、そんなものにどれくらいの夢を見ていたのだろうか。希望を抱いていたのだろうか。
「アリオスを消して賢者の石を作ったとしても、いずれは消える。次に別の街を消して石を作って、繰り返して、繰り返して……最後に何が残りますか? 誰もいない荒野が広がるだけです。ですから、誰の命もあなたには渡せません」
「…………」
「外からの脅威に怯えて国を崩壊させるよりも、まずは国内を整えることが大切だとは思いませんか? 公爵様」
「…………」
――反応がない。
「もうよい」
やっと帰ってきたのはその一言だった。
「終わりだ、なにもかも」
自暴自棄な諦めだった。
(身勝手すぎる)
そんな簡単に手放してしまうのか。
父である皇帝を、甥であるイヴァン皇太子を殺そうとしてまで、叶えようとした野望を。
あまりにもあっさりとしている。
何故? 思い当たるのは、やはり――
「カイウス・フローゼンはいま何をしているのですか」
公爵の肩がぴくりと震える。
その名前を聞いた公爵の顔が、みるみる青ざめていく。
「そう。皇帝陛下の首を落とした、カイウスです」
ノアの頭に、ひとつの可能性が浮かび上がっていた。
もしかして公爵は、カイウスに対抗するために賢者の石を求めたのでは、と。それほどカイウスを恐れているのではないか、と。
それならば、帝都から離れて自領の城に籠っていたのも。
極度に老化しているのも、説明がつく。
「彼がいるから、公爵様は帝都から逃げたのでは?」
更に問う。
だからアリオスに連れ去られて安堵していたのでは、と。
ヴィクトルを挑発し、王国の再興を唆したのも、ヴィクトルとカイウスをぶつけて共倒れを狙ったのではないか、と。
ノアに賢者の石を差し出すように言ったのも、本当は手に入れるつもりはなく、ただ存在するのを確認したかっただけなのかもしれない。それを使ってカイウスと戦わせるために。
(カイウスは、いったい何をしたの?)
公爵をここまで恐れさせるなんて。
皇帝を手に掛けた以外にも、何かをしているのは間違いない。傍にはグロリアもいるはずで、何も起こらないわけがない。
「魔女よ……貴様は何者だ」
すっかり威勢の削がれた声で、初めてノア自身のことを聞いてくる。
「私はカイウス・フローゼンの伯母です」
「……そうか。そういうこともあるのだろうな」
普通なら信じがたいことだろうが、公爵はあっさりと受け入れた。もう何もかもどうでもよかったのかもしれない。
「カイウス・フローゼン……あれは、奇妙な客人だった」
蒼白な顔で、ぽつり、ぽつりと話し始める。
「名乗ったときは狂人かと思ったが、力は本物だった。マグナファリス殿に打ち倒されたが、再び戻ってくるとは……」
カイウスは復活後、マグナファリスと対峙する前に公爵家に接触していたということか。予想通りではあったが。その時に、賢者の石の失敗作を渡し、帝国の混乱を狙ったのだろうか。
歴史の彼方から突然もたらされた力と悪意。それによって運命が歪められていったのだろうか。
「魔女よ。あれは本物の悪魔だ」
身体が小刻みに震えている。いったいどんな恐ろしいことがあったのか。
魔女や悪魔という呼び方は、わかりやすい。訳の分からない恐ろしいものに定義を与える。しかしその本質を隠す。
(アリオスの住人にとっては、公爵様こそ本物の悪魔かもしれませんよ)
さすがに言葉にはせず、飲み込む。
誰しも、誰かにとっての悪魔になりうる。
「そうですか。会えるのを楽しみにしています」
「カイウスは私に言った。王になれと」
「――――?」
公爵は遠くを眺める。
二度と戻れない遠い場所を。
「老いた者や幼すぎる者には、動乱の時代には任せられぬと。思えば、あの瞬間から私は……」
懺悔は誰に向けたものか。
おそらくもうこの世にはいない者に。
「そうですか」
ノアはそれだけ言って、前に歩み出た。
「さて、公爵様」
ずっと離れた場所に立っていた魔女が、ゆっくりと歩み寄ってくる。公爵の顔が恐怖に引きつる。
そこにいるのはただの哀れな病人だった。
ノアは微笑む。
「――これから、あなたの病気を治します。少し苦しいかもしれませんが、我慢してくださいね」






