6-17 地を駆ける部隊
「バーミリオン卿!」
テラスに飛び出して、導力を込めて空へ叫ぶ。
月に雲がかかったように、上から影が落ちる。巨大な飛竜が風を纏いながらテラスの下まで移動する。飛び移りやすい場所にまで。
ノアはバーミリオン卿を信じ、その背中に飛び乗った。身体をふわりと風が包み、緩やかに背の上に下りる。ヴィクトルも、公爵を抱えたままバーミリオン卿の背に乗った。
城に現れた飛竜の姿は当然のようにすぐに見つかり、騒ぎが大きくなってくる。悲鳴や怒号、武器を持った人の動く音。
それらを悠然と降り払い、飛竜は飛び立つ。西の空に向かって。
《重い》
「ごめんなさい、バーミリオン卿」
《高くつくぞ》
「何でお支払いすればいいでしょう」
《肉だ》
「あ、はい」
思いのほか肉食だった。
バーミリオン卿の背の上に、気絶したままの公爵の身体を縄でくくりつける。間違っても滑り落ちないように。
ひと段落ついてから、ヴィクトルの服の袖を引っ張る。
「ヴィクトル、傷を治すから寝転んで」
「大した傷ではない」
「だから、それは私が決めること。はい、寝転んで」
ヴィクトルは随分と渋っていたが、仰向けに寝転がる。
ノアは膝を揃えて座りながら、ヴィクトルの頭の下に膝を差し込んで枕代わりにする。
驚いて頭を浮かせるヴィクトルの顔を両手で包み込んで、軽く押さえつけ。
「おとなしくしてて」
言って、革の手袋を脱いで、できたばかりの頬の傷跡に軽く手を触れる。
「力抜いて」
「…………」
強張っていた身体から力が抜けて、目が閉じられる。
ノアは治療に集中した。
うまく避けたのか、傷は深くはない。命にはかかわらない怪我だが、このままだと痕が残りかねない。
(こんな傷、初めて見た)
矢傷に似ているが、違う。
入り込んだ異物を除去し、損傷した部分を治していく。じっくりと、慎重に。
「ヴィクトルは、この変な杖のことを知っていたの?」
治療をしながら問いかける。
公爵の寝室から持ち出してきた、木と鉄が組み合わされた杖を眺めながら。
この杖の先端から撃ち出されたものが、ヴィクトルの身体を傷つけて、窓を割った。
「これは銃というものだ」
「銃?」
「ああ。高価で製造が難しいが、非常に威力の高い武器だ。いまはまだわずかに外から入ってくるのみだが、いずれ広まっていくだろう」
外国からの輸入品ということに、ぞっとする。
海の外ではこんな武器が広まっているなんて。
「火薬の爆発力で鉄の弾を撃ち出す仕組みだ。構造だけ見ればそこまで複雑ではない」
つまりは次第に量産されていき、珍しくない武器に変わっていくということだ。
今回は掠っただけだから頬の傷だけで済んだが、当たりどころが悪かったり、威力が高まっていけば、脅威的な武器になっていく。弓矢や槍剣だけでは対抗できないような。
これもまた進化なのだろう。
「戦いをまるごと変える武器ね。もう生産しているの?」
ヴィクトルが手をこまねいているわけがない。
「まだ研究段階だ」
少し迷った末に、言う。
それは研究開発が進んでいないことへの憤りか、殺傷力の高い武器を開発していることへの葛藤か。
膝上に乗せているヴィクトルの頭に触れる。髪をそっと撫でつけるように。
「ノア……っ?」
驚く顔がおかしくて、笑ってしまう。手のひらや指に触れる髪の感触が気持ちいい。
「ヴィクトルが生きていてくれてよかった」
心からの言葉を声にする。
気持ちを込めて、銀色の髪に触れる。
ヴィクトルの、民を守る貴族として、帝国の一員として、ひとりの人間としての、迷いも葛藤も決断も。
ノアはすべて受け入れる。ひとりで背負わせたくはないと、思った。
(それにしても、銃か……脅威だなぁ)
威力もさることながら、何よりもあの速度。あれはノアには防げない。
錬金術はどうしてもタイムラグがある。気づいて対処しようとしたときには撃たれているだろう。おそらく避けるのも難しい。
銃だけではない。
いずれは、錬金術を凌駕する技術が世界を席巻する。遠いようで近い未来に。あらゆる技術が発展して、世界の形が変わっていくだろう。
(そのとき私はどうしているんだろう)
守ると誓ったのに、力が通用しない状況がきたら、どうすればいいのだろう。
役に立たない存在になってしまったとき、ヴィクトルの傍にいられるのだろうか。
幸せにすると約束した。だが、それができなくなってしまったら……
胸が締め付けられるように痛む。
髪を撫でていた手は止まり、喉の奥に重いものが詰まる。
「そんな顔をしないでくれ」
ヴィクトルの伸ばした手が、手袋を脱いだ指が、頬に触れた。
やさしく触れる感触が、くすぐったくて、嬉しくて。自然と笑ってしまう。
ヴィクトルが安心したように微笑むのを見たノアの胸に、愛しい気持ちが溢れた。
「好き」
感情が言葉になって、零れる。
好きだから、愛しいから、言わないといけないことがある。
ずっと胸の奥にあった不安が、いまは自然と言葉にできた。
「私は、あなたの傍を離れるつもりはないし、ヴィクトルの幸せを心から願っている。でもそれは、好きだからだけじゃなくて――あなたを、尊敬してるから」
恋心だけで傍にいるわけではない。
最初はきっとそんなものはなかった。
ただ、気になった。アレクシスの子孫だからということも理由の一つだろうが、何より、ヴィクトルという人間がどのような未来をつくっていくのかが、見たくなった。惹かれた。
「だから、ヴィクトルにこれから、本当に好きな人ができたら――」
言葉は最後まで言えなかった。
その光景を想像したとき、胸がぎゅっと痛くなってしまって、声が詰まった。
ヴィクトルは何も言わず、起き上がる。
座ったまま身体を捻り、ノアの足の横に左手をつく。
――近い。
目が合う。吸い込まれそうなほど青い瞳に心が奪われ、動けない。
「あなただけだ」
低く響く声は、やさしさと、渇望で、微かに震えていて。
「ノア、あなたの愛だけが欲しい」
甘い熱が、心にぽっかりと空いていた穴を満たしていく。
ずっと胸の奥にあった穴が満たされて、溢れて、涙となって零れる。
自分でもどうして泣いているのかわからないまま、ただ、頷く。
顎にそっと指が添わされる。繊細なガラス細工に触れるかのようなやさしさで。
顔が近づき、瞼を下ろす。湛えていた涙が、頬を伝って落ちていく。
唇が重なる。
身を焦がすようなこの熱を、きっと生涯忘れないだろう。
風の音がわずかに変わる。
《面白いものが見えるぞ》
バーミリオン卿が速度を落としながら言う。
空高く飛ぶ飛竜の上から下を見てみると、人を乗せた馬の集団や、馬車が動いているのが見える。
「軍隊が動いている……」
全体の数は二百ほどだろうか。鉄の集団が、大地を蠢きながら西を目指している。公爵家の部隊だろう。位置から推測するに、七日ほど前には出発したと思われる。皇帝暗殺事件のすぐ後に。何もかもがあらかじめ計画されていただろうことがわかる。
ルスラーン公子が言っていた近くの兵、とはおそらくこの部隊のことだろう。
この人数では普通はアリオスは落とせない。油断は禁物とはいえ。先行隊ということだろうか。それとも、ルスラーン公子が言っていたように捨て駒なのか。後詰めの部隊がいなさそうなことを見るに、その可能性はあるが――
捨てるために出兵させるなど、有り得ない。ルスラーン公子の脅しだろう。
「ここで止める?」
ノアの背中を抱いたままのヴィクトルに問う。
少し先で罠を張れば、進行を止めることはできるだろう。浅い落とし穴をつくればしばらくは行動できなくなる。
「いや、まずは帰ろう。ここはまだ領地ではないからな」
確かにこの場所の領主に迷惑がかかるかもしれない。
「地の利はこちらにあり、人質もいる。焦ることはない。戻り次第斥候を出す」
まさか空の上では大将である公爵が誘拐されて運ばれているなんて、地上の兵たちは夢にも思っていないだろう。
《なんだ、つまらぬ》
バーミリオン卿が心底がっかりしたように呟く。
思いのほか好戦的だった。






