6-16 公爵との対面
室内に明かりはなく、窓から差し込む光が部屋の中を淡く浮かび上がらせている。
ベッドに座るわずかに動く影は、突然の侵入者を見ても、とても落ち着いていて驚いた様子がない。
立ち上がる気配も、人を呼ぶような素振りもしない。落ち着いている。
むしろヴィクトルが来るのを予想していたような雰囲気だった。
(まさか、ね)
帝都を発って、西の端のフローゼン領まで戻ってから、再び東のここまでこんな短時間で来られたのは、バーミリオン卿の協力があったからだ。誰も予想できるはずがない。
予想していなくても、来るとどこかでわかっていたから、驚いていないのだろうか。
「地獄から私を殺しにきたか」
「あいにく、貴様と同じ場所にいくつもりはない」
部屋の主は笑う。
寝間着姿でも威厳を感じられるのは、高位貴族だからこそか。
ノアが知っているニコライ・ボーンファイド公爵は、豊かな金髪と恰幅の良さが印象的な、中年の男性だった。
しかしいまは記憶よりも瘦せていた。髪の量も減っている。二十年は老けて見える。しかし、間違いなく本人だ。
いったい何があったのか。
「ボーンファイド公爵。戦争を起こすつもりなら、いますぐやめてください」
ノアが口を開くと、笑い声が消える。
「フローゼンの魔女か」
知られているのなら話が速い。
「いますぐヴィクトル・フローゼンへの皇帝殺しの冤罪を取り消して、イヴァン様の戴冠式を執り行ってください。事実を歪めず、あるべき姿に戻してください」
交渉も駆け引きも何もない、ストレートな要求。
公爵は喉の奥で嘲笑する。
「フローゼンの魔女よ、事実とはなんだ? 皇帝の意が事実であり真実だ」
「戴冠式もなく、己が皇帝であると思っていらっしゃるのですか」
苛立ちが口から零れる。
公爵は少し考えるそぶりを見せた。
「ふむ、フローゼンの小僧。そこの魔女が言ったことが、お前の意思か?」
「…………」
ヴィクトルは答えない。
「私を殺し、イヴァンを殺し、邪魔をするものすべてを殺し。自分が王になる気はないのか」
公爵の顔に浮かんだのは、笑みだ。
嘲笑ではない。期待に満ちた、悪意の笑み。
「そう、王国の再興だ」
「何を考えてるの?」
思わず率直な声が出る。理解できない。
自分が皇帝位を奪おうとしているにも関わらず、ヴィクトルにも叛逆を唆す。現実的ではない提案で。
これではただ帝国を滅茶苦茶にしたいだけにしか見えない。
「最も強き者が王の座につく。それだけのことだ」
気分を害した様子もなく呟く。そしてヴィクトルを見る。答えを促すように。
しばしの沈黙ののち、公爵は喉の奥で笑った。
「その気はないか。腑抜けたやつめ。父親が泣いているぞ」
紫色の瞳が、ぎらりと光る。
「お前の父は、王国の再興を目論んでいたというのに」
「父は父、私は私だ」
「親の無念を晴らす気はないのか。親不孝者め」
故人を引き合いにした挑発は、ヴィクトルには通用しなかった。剣は鞘に収まったまま、抜かれる気配はない。
公爵は大きくため息をつき、肩を落とす。
「殺すなら殺せ。お前の望んだ、仇の首だ」
ノアは静かに息を飲んだ。
あまりにも見苦しく、そして潔すぎる。
罠の方が納得できるほど、公爵の行動は理解しがたい。無抵抗で殺されようとするなんて。
これが皇帝になろうとしている人間なのだろうか。野心に満ちていたあの姿はどこへ行ったのか。
首を差し出されても、ヴィクトルは剣を抜こうともしなかった。
その姿を見て、公爵は落胆したように嘆息する。
「……イヴァンの戴冠だったか。約束しよう。人質として娘のオリガを引き渡す。これで満足か」
何もかもを諦めたように、力なく言う。魂の抜け殻のような姿で。
いまの公爵は、亡霊だ。
開いたままの窓から入り込んだ風が、淀んだ空気を揺らす。
濃厚な香の匂いが、わずかに薄まる。
「できない約束はするものではない」
鋭い刃のような険しい声が、膠着を切り裂いた。
「皇帝殺害を果たしておきながら、どうして貴様はここにいる。何故、帝都を離れた」
公爵は答えない。紫の瞳が静かにヴィクトルを見据えている。
「簡単な話だ。帝都を掌握できなかった――失敗したからだ。ニコライ・ボーンファイド、貴様の手に王冠は落ちない」
「ヴィクトル・フローゼン。父親とは似ても似つかぬ愚かな子。お前の身体には証こそないが、おぞましい獣が混ざっている」
口元に深い笑みが刻まれる。
「その獣はいずれお前を喰い破る」
公爵はベッドに座ったまま、ベッド脇に立てかけていた長い棒状のものを手に取る。鉄と木が組み合わされた、珍しい形状の杖だった。
その杖を両手で持ち、先端をヴィクトルに向ける。
――パンッ!
乾いた破裂音と共に、後ろの窓が割れる。
パラパラと砕け落ちたガラスが降り積もる。甘い香りの中に、鼻にツンとくる匂いが混ざる。この匂いは火薬だ。
ヴィクトルの頬が浅く裂け、血が滴る。
「避けたか。まったくこの化け物め!」
公爵は感動の声を上げた。
(避けた?)
状況を整理すると、奇妙な杖の先端から、火薬の力で何か小さなものが発射され、それをヴィクトルは避け、代わりに窓が砕けた、ということになるが。
見えなかった。まったく。
いったいどれだけの速度で発射されたのか。そしておそらく、まともに当たれば場所次第では死ぬ。
人体のやわらかい部分を貫かれれば、呆気なく死ぬだろう。
しかしヴィクトルは怯むことなく、真正面から公爵に肉薄する。
(――まずい)
ノアも駆け出し、公爵に向けて手を伸ばした。導力で首の神経に触れ、揺らす。
がくりと、意識を失った身体がベッドに沈み込む。
「ヴィクトル」
名前を呼びながら駆け寄り、鮮血の流れる頬に手を伸ばす。刃物の傷とは違う。皮膚がえぐれている。
応急手当として止血を行い、傷の表面を修復する。
「あとでちゃんと治すから」
「大した傷ではない」
「それは私が決めること」
そうしているうちに、城内がざわつく気配がした。
あんな破裂音が出れば当然だ。すぐにここにも人が来る。
扉は簡単には開かないように隙間を埋めたが、錬金術師が来たり無理やり壊されればすぐに開く。
「縛るのを手伝って」
縄を使おうかと思ったが、ちょうどシーツがある。
「どうするつもりだ」
「誘拐」
「なるほど」
ヴィクトルはどこか楽しそうに言って、公爵の身体をシーツで器用に拘束し、肩に担ぐ。
ノアはベッドの上に転がっている奇妙な杖を手に取った。こんな危険で興味深いものを置いてはいけない。
「よし、早く逃げましょう」






