6-15 空の旅
突如、空から降りてきた巨大な飛竜。
黒く硬い鱗、太く長い首、背から生える一対の翼。そして首元の赤い宝石のような逆鱗。
剣を抜こうとするヴィクトルの腕にしがみつく。
「待って待って。この飛竜は、マグナファリス先生のお友だちだから」
「何っ?」
ヴィクトルが驚きの声を上げる。当然だ。ノアも最初は信じられなかった。飛竜と友人だなんていつの時代のおとぎ話だろう。
どうやって説明しようかと悩んだ瞬間――
《面倒だ》
満月のような金色の眼が鈍く光る。
刹那、突風が吹き抜ける。反射的に目をつぶり、顔を覆う。
その時、風と共に何か強い力が身体を駆け抜けていった。
《聞こえるな、フローゼン》
その落ち着いた声は、ノアにも聞こえた。
「……なんだ、これは」
声はヴィクトルにも聞こえたようで、右手で頭を押さえて困惑している。
ヴィクトルの鋭い眼差しが飛竜に向けられる。
《苗床は捏ねられていた。少し整えてやっただけだ。どうだ、フローゼン》
「……ええ、よく聞こえます」
見つめ合う。
完全に、意思の疎通ができている。会話が成り立ってる。
導力を操れる錬金術師しか、竜と意思疎通はできないはずなのに。ヴィクトルも錬金術師の才能があるのだろうか。それをバーミリオン卿が無理やり開花させたのか。
ヴィクトルは剣から手を離す。
「お初にお目にかかります、卿。不躾、失礼しました」
完全に順応している。
ノアの頭の中では疑問が次から次へと湧き上がっているが、すべてを聞く余裕はない。
「バーミリオン卿がどうしてこちらに? 先生は――」
《友はいまは動けぬ》
「何があったんですか?」
《知らぬ》
バーミリオン卿でも詳しくはわからないらしいが、トラブルに巻き込まれていることは間違いなさそうだ。だがどういう理屈でか二人の繋がりは断たれてはいないらしい。
《死んだも同然であろうがな》
「そんな……!」
《些事だ。さて、錬金術師よ。友の願いにより、そなたに翼を貸し与えよう》
――マグナファリスが、バーミリオン卿に願い、ノアに翼を貸してくれようとしている。
それは、緊急事態ということだ。
「……ありがとうございます」
迷っている暇はない。素直に力を借り受けることにする。
飛竜の翼なら空を飛べる。圧倒的な速度で、安全に。ノアはもうその速さを知っている。
「早速ですが、いまからボーンファイド公爵領までお願いしてもいいでしょうか」
《容易いことだ》
「ありがとうございます!」
ノアは自分のいた客室の方を見た。部屋から垂れる縄を回収する。
ヴィクトルは戸惑いながらノアを見ていた。
「バーミリオン卿の翼なら、いまから行っても、明日の朝には帰ってこれるわ」
「いまから行く気か?」
「公爵と会って、どう行動するかは私にもわからない。でも、ヴィクトルがいてくれるなら、私は私でいられる気がするの」
ヴィクトルに向かって、手を伸ばす。
「お願い、一緒に来て」
差し伸べた手は、何の躊躇いもなく握り返された。
##
飛竜は空へ飛び立つ。高く、高く。雲を越え、遥かな高みへ。
バーミリオン卿の背中の上は、不思議な世界だった。強烈な風が吹いているはずなのに、ほとんど無風だ。寒いはずなのに、適度に涼しくてとても居心地がいい。
マグナファリスと一緒に帝都の空を飛んだ時のように。
ノアはバーミリオン卿の背中の上に寝そべりながら、空に手を伸ばす。
星が近い。深い空と、星の海に、吸い込まれてしまいそうだ。不思議な感覚だった。
ヴィクトルは座った姿勢で、大地と空の境や、月と星に照らし出された地上の形を見ている。頭の中の地図と照らし合わせているのだろうか。
空からの視点は不思議なもので、大地のすべてがまるで作り物のように平たく見える。
ひとつ、高くそびえ立つ竜骨と呼ばれる山脈以外はすべて。
数日前に進み続けたあの長い道のりが、絵巻物のようだ。すごい速さでその上を飛んでいく。
「帝都はいまどうなっていますか?」
《何も変わらない》
問いかけると、つまらなさそうに返される。
本当に何も変わらないということはないはずだ。
飛竜の感覚ならそうなるのだろうか。この空からの視点で地上を見ていれば、人の営みなど些細なものに映るであろうが。
《時の異邦者よ》
「――はい」
《そなたには期待している》
何を、と聞く前に高度が更に上がる。
竜骨を越えるためにか、星が更に近くなる。
《世界の破壊を》
「……そ、んなことはしません」
《いや、そなたは行う。すでに行っている》
「卿は、変革を求めていると?」
座したまま、ヴィクトルが問う。
《その通りだ。フローゼン》
どこか恍惚とした響きが、ノアの頭の中を揺らしていった。
竜骨を越えて、東へ。
足で歩けば途方もなく広大な大地を、瞬く間に飛び越えて。
空の王者は世界を飛ぶ。
##
まだ夜は深い。
森も寝静まり、風の音だけがほのかに響く、月明かりの世界が翼の下には広がっている。
それはボーンファイド公爵領も同じ。
公爵の居城は高台にあった。
荘厳であり美しく、要塞のような石造りの城。旧敵対勢力の多い西からの敵や東の海からの侵攻を防ぐための、軍事用の城。
「卿、北側から城の頂上へ回っていただきたい」
ヴィクトルが言うと、バーミリオン卿は速度を落とし北側に行き、そのまま旋回するようにして城の真上に対空する。
公爵は最も安全な場所にいる可能性が高く、この城で言えば当然頂上付近だ。向こうもまさか空から降ってくるとは思っていないだろうから、警備も一番手薄なはずだった。
頂上は尖塔になっている。中は物見台になっているはずだが、人の気配はない。
ヴィクトルがノアをふわりと抱き上げる。
「待って――」
制止の声は間に合わず。
ヴィクトルはバーミリオン卿の背から、尖塔に向けて飛び降りる。
(嘘――!)
安定していた安心できる場所から、空中へ。
悪い夢のような浮遊感。足が、身体が、浮く。否、落ちる。
とん、と確かな感触が身体に響き、とん、とん、とリズミカルに身体が浮く。
最後に大きく飛び。
両足でしっかりと着地したのは突き出したテラスの上だった。
(最初からここに降りればいいのでは?)
下ろして貰いながらひしひしと思う。
バーミリオン卿の姿を見られないようにだろうか。
領土を見渡せる位置にあるテラスは、誰かの部屋に面していた。
中に気配はひとつ。
ヴィクトルは躊躇いもせず、テラスに面した窓を開ける。
ふわりと、甘い香りがした。
心が安らぐ清廉な香り。安眠のための香だろうか。
部屋の中央にある大きなベッドに、何者かが腰を座っている。こちらに気づいて目を覚ましたのではなく、最初から起きていたようだ。
「何者だ」
しわがれた、老人のような男の声。
踏み込もうとするヴィクトルを、ノアは腕で制する。
「夜分失礼いたします。錬金術師です」
「――フローゼンの小僧か」
――フローゼンの小僧。
その呼び方から察するに、部屋の主はニコライ・ボーンファイド公爵だが。
雰囲気や声の印象が、ノアの知っているものと若干変わっていた。公爵はもっと精力的で若々しい男性という印象だった。
いまは、姿こそははっきりとは見えないが、まるで別人のように変わっている。老人のように。






