6-13 出発の準備
ノアは書斎を出て、自室にしている客室の方へ向かう。
「その様子だと、いい返事は貰えなかったみたいだね」
誰もいない廊下に声が響く。ゆっくりと鳴る、重い鐘のような声が。
「まあ当然か。君にそんな危険なことをさせるわけがない」
「どうして?」
純粋な疑問を誰もいない場所に投げかける。
「戦争が起これば、多くの人が死ぬ。私と公爵の命でそれが回避できるなら、賭けるしかないでしょう?」
「君は、自分の命さえ天秤にかけるのか」
その声は、いままで聞いたものとは違っていて、嘆くような響きを含んでいた。
振り返ると、ファントムが黄昏のような暗く明るい笑みを浮かべていた。
「自分の価値を低く見積もりすぎじゃないかな。君がいなければ侯爵はとっくに死んでいるし、この街もとっくに滅びてる」
「…………」
だがそれは逆のことも言える。
ノアがこの時代に存在しなければ。
アレクシスから逃げて三百年の時を超えなければ。
万能薬をつくらなければ。
アレクシスが戦争を起こすことも、カイウスが不老不死となることも、現代で皇帝を殺すこともなかったかもしれない。
仮定の話は無意味だ。自分ひとりが世界を動かしているわけではない。思惑と偶然と故意と、意志と力が絡み合って歴史は作られていく。
それでも、原因のひとつになってしまったのではないか、と。そんな思いが振り切れない。
これから何人が死に、傷つき、何人が犠牲になるのかと。
一人になったときに、声が囁いてくる。自分の声が。
――死んだ人間は生き返らない。過ぎた時間は巻き戻らない。
それでも未来の悲劇は防げるかもしれない。
(そのためになら――)
命を懸けることに躊躇いはない。
ファントムと緑の瞳が細められる。
「大切な人が自分を大切にしてくれないのは、悲しいものだよ」
「ファントムさんはルスラーン様側じゃないの?」
「それを言われるとつらい」
乾いた笑い。
そうしている内にノアが使っている客室の前までくる。
「入って」
扉を開きながらファントムに言うと、困ったように笑った。
「見つかったら侯爵様に殺されそうだな」
まだヴィクトルにも誰にも、案内役としてルスラーンから派遣されたファントムのことは話していない。
ファントムのことを知っているのはトルネリアだけだ。
「ごめんなさい、先に皆に紹介した方がいいわよね」
「お構いなく。僕は名前の通りのものだ」
――幻影。
しかし神出鬼没であっても実在する人間には間違いなく、許可なく屋敷内をうろついて誰かに見つかってしまえばトラブルになりかねない。
部屋に入れ、扉を閉める。
腰の亜空間ポーチの中から帝国の地図を取り出し、机の上に広げる。
「ボーンファイド公爵はいまどこにいるの?」
「自領で戦争の準備だよ」
ファントムが指を差した場所に、ペンで印をつける。
「もし戦争になっても、本人は絶対に自分の城から出ないから、安心していい。公爵はとても用心深い」
公爵領は、帝都の南側にある広大な領地だ。豊かな穀倉地帯も含んでいて、領民を食べさせることには困らない。兵士も多く抱えられる。
「どうやって行く? 僕のゴーレムでこの大地を駆け抜けようか?」
「やっぱりあれはファントムさんのゴーレムだったのね」
帝都からの移動中に現れたゴーレムが鮮明に思い出される。速度に特化した黒いゴーレムが。
ファントムは嬉しそうに笑う。
「君のを参考にしてみた。意外とこちらの才能はあったみたいだ」
「そうみたいね。見ただけで再現してしまうのは相当な才能よ」
「お褒めに預かり光栄だなぁ」
地図上で、アリオスの街から公爵領の道を確認する。帝都よりは近いが、遠い。ゴーレムで走ったとしても三日はかかる。
「行くなら私ひとりで行くわ。あなたに何かあったら、レジーナさんに顔向けできないもの」
「君に何かある方が大変だよ」
地図の横にファントムの手が置かれる。
顔を上げると、こちらを覗き込んでくる緑の瞳と目が合った。
「それで、どこまで僕のことを知っているのかな」
「レジーナさんとの関係と、あなたの名前くらい」
「姉さんに信頼されているようで、なにより」
感情の読めない笑顔を浮かべる。
親愛のこもった呼び方が、少し引っかかった。
「帰らないの?」
「帰らないよ」
あっさりと言う。まるで一生帰る気はないような冷たさで。
「だから気にしないで、すり切れるほど使ってくれればいい。それが僕の喜びさ」
「……どうして帰れるのに帰らないの」
問いに、ファントムは無言の笑みで返す。言う気はなく、踏み込ませる気もないらしい。
「いつ発つんだい?」
人当たりのいい笑顔は、追及を拒絶している。ノアは問うことを諦めた。
「明日の朝」
「なるほど。それじゃあ少し準備をさせてもらおうかな」
「ファントムさんの部屋を用意してもらうわね」
「いや、結構。見つかると話がややこしくなる」
「変にうろつかれる方がややこしいんだけど……」
「侯爵家に迷惑はかけないよ。それにここは怖い人が多いし、僕らの天敵もありそうだし」
肩を竦める。よほど見つからない自信があるらしい。
「話しておかないと、見つかったときに殺されかねないわ」
いま侯爵邸にはイヴァン皇太子も滞在しているのだ。不審者は見過ごされない。
「それじゃあ、早々にお暇させてもらうことにするよ」
あくまで自分の存在は隠していたいらしい。
「それと、僕が言うのもなんだけど、僕を信用してもいいのかなぁ」
「……あなたが裏切るとしたらここじゃないし」
「なるほど、正しい。そのカードを切るのはもっと最悪のタイミングだよね」
苦笑するファントムの顔を見つめ、眼を覗き込む。
「それに、私はファントムさんを信じてる」
ファントムは短く息を飲み、その整った顔面が引きつる。
「……君は本当に不思議なひとだ。こんな最高に怪しい男を信じるって?」
「イヴァン様やヴィクトルに手を出すつもりなら黙っていないけれど」
「いやいやいや、僕も庶子とはいえ貴族生まれ貴族育ちなんだ。そんな恐ろしいことはできないよ」
「ええ。信じているわ」
「……それじゃあ、君の信頼を裏切らないように頑張るよ」
その時、部屋の扉が開く。
入ってきたのはトルネリアだった。ファントムの姿を見て、表情と身体を強張らせる。
「貴様! 何故ここにいる!」
「ああ、ご心配なく。すぐ出ていくよ」
ファントムは両手を上げて降参の意を示す。あまりの呆気なさに、トルネリアは緊張は保ったまま、殺気を収めた。
「……随分と殊勝なことだな」
「また呪われたくはないからねぇ」
「まただと?」
訝しげに首を捻る。白い髪がさらさらと揺れた。
「僕はトルネリアの呪いを受けていて、ノアに助けてもらったんだよ。ね?」
「……肺に沈殿していた呪素を取り出したわ」
同意を求められて答える。だが、どうしてわざわざトルネリアを挑発するようなことを言うのだろうか。
そもそも、本当にトルネリアの呪いなのだろうか。ファントムが言ったからそう信じたが、トルネリア自身はファントムと面識がないように見える。
「…………」
トルネリアの眼差しが険しくなる。
ファントムは睨まれていることに気づいているのかいないのか、退散するように部屋から出ていく。
扉が閉まるのを確認して、ノアはトルネリアに向き直った。
「どうしたの?」
「いや……」
言葉を濁す。表情は陰り、元気がない。
「そうだ。昨日言っていたホムンクルスの資料出しておくわね。座ってて」
トルネリアを椅子に座らせ、帝都の大皇宮にいたときにまとめた資料を取り出す。
ホムンクルスの作り方、マグナファリスの教え、それらをまとめ、綴った冊子を。
ノアが最終チェックをしている間、トルネリアは机に置いたままの地図を眺めていた。
「……ノア」
「うん?」
「お主がどんな選択をするかは知らんが、ここは我に任せておけ」
紙をめくる手を止めて、トルネリアを見る。
強い感情――覇気、怒り、そして迷いが、赤い瞳から零れていた。
「だから、必ず帰ってこい」






