1-13 大空のキメラ
(えっと……)
いま何が起こっているのだろうか。思考が停止して理解が追い付かない。
抱きしめられている。何故? どうして?
ただただ暖かい。人の体温とはこんなにも暖かいものなのだろうか。
手の指先から、足の爪先まで、ぽかぽかと暖かい。まるで生まれ変わったかのように。
――そうだ。生まれ変わったかのように、身体の傷が治っている。魂が活力に満ちている。いまなら空だって飛べそうなほど。
――いや、もう飛びたくはないけれど。
「私ってすごい!」
感動の声が口から零れる。
ヴィクトルの堪えるような笑い声が耳元で響いた。
「ちょ、ちょっと、離して」
もぞもぞ身体を動かしてヴィクトルの身体を両手で押すと、やっと離してくれた。
「変な人ね。こんな私を助けようとするなんて」
あんな方法で薬まで飲ませて。
出会って二日目の怪しい女に。
それでも、いまのノアは生きていることを嬉しいと思っている。
ヴィクトルが何かを言いかけた刹那、あの声が再び聞こえてきた。
エレノアールを呼ぶ声が、高い空から響く。
弾かれたように顔を上げると、城の方角からこちらに向かってくるキメラの姿が見えた。痛い目を見せたと思ったが、もう復活したらしい。
それもそのはず。呪素は生命力のある相手にはかき消されやすい。相手がよほど弱っていない限り、命を奪うには至らない。キメラでも人間でも。
ヴィクトルはノアを庇うようにして立った。
キメラはノアたちを警戒しながら空を旋回し、こちらの様子を窺っている。
散々痛い目を見て学習したのだろうか。奇襲してこない滑空兵器など恐れるに足らずなのに。
「降りてこないなら、こちらから行くまでよ」
ノアは近くに刺さっている棒を引き抜いた。おそらく元は槍。
槍の穂先を修復し、全体の強度を上げる。薬の影響か、力が次々に湧いてくる。
そして最後に、刃の部分に呪素を込めた。
「ヴィクトル。これを、あいつに投げて。できたら胴体に!」
「承知した」
刃に注意しながら、全幅の信頼を寄せてヴィクトルに手渡す。
他力本願、上等。
かつて戦地になったであろうここには他にも槍がたくさんあるから、もし外したとしても次が用意できる。
――力あるものが使えば、朽ちた槍も空を穿つ。
ヴィクトルは走り出し、ブレーキをかけると共に上半身を捻る。力と勢いの全てを槍に伝え、天空を射た。
放たれた槍は目でも追えない速度で風を切り、吸い込まれるようにキメラの胴体を突き破り、串刺しにした。
「お、おぉー……」
三百年後の人間怖い。
空を飛ぶための翼が力を失い、キメラの身体が落ちてくる。重い音と土埃。流れ出す血液が、地面に染み込んでいく。
ノアはキメラの元へ駆け寄った。
ヴィクトルが制止の声を上げるが――
「もう死んでいるわ。魂が完全に離れているもの」
身体を貫かれた衝撃と、落下の衝撃。そして槍に込めた呪素。
キメラは完全に絶命していた。
近くに寄ってその構造を見る。
知りたいことはいくつもあったが、重要なことは驚異的な回復力の正体だ。それは身体の作りを見ればすぐに推測できた。
「心臓が七つもある」
おそらく混ぜた生命の数だけ。
七つの心臓が、獅子の身体に、鳥の頭部に、翼竜の翼に、蛇の尾に、それぞれ仕込まれている。この心臓たちがこの歪な生物を支え、異常な生命力を生み出していた。
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赤い空が、夕暮れによって血に染めたように赤くなる。
駆け付けたニールとも合流して、ノアは三人が乗れる四つ足のゴーレムをつくってその背に乗った。振動で落ちないようにきちんと座席も用意する。
「これは……だいじょうぶなのか」
「はい、旦那様。これが意外と快適なのです」
ヴィクトルが警戒しているうちに、ゴーレムの上に寝転ぶ。ローブをくるりと身体に巻いて。
「だぁいじょうぶ……さあゴーレムくん、アリオスへ行きましょう」
「呂律が回っていないようだが」
「へいきへいきぃ。少し眠いだけ……力は有り余っているから、途中で燃料切れはしないわ。たぶん」
進みだしたゴーレムの足取りは軽い。関節がいい働きをしているので意外と揺れないし振動もない。
ノアも移動用ゴーレムには自信がある。
(ゴーレムで運送業でもしようかな)
ゆらゆらと揺りかごのようにやさしく揺られながら考える。
ゴーレム運送。安心安全に荷物や人をお届け。需要はある気がする。
しかし一度に一体のゴーレムしか操れないノアには難しいかもしれない。
だんだんと眠気が押し寄せてくる。
あとはもう城郭都市アリオスに帰るだけだ。何かあったら同乗者に甘えることにして、ノアは睡魔に意識を委ねた。
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黒い髪がふわふわと揺れている。
「まあ、生きて王都を出られるなんて。よっぽど悪運が強いのかしら?」
金の瞳が猫のように輝き、驚きの声が広く響く。
大きくて丸い瞳が、ノアを上から見下ろしていた。
夢か現か。高位精神体になったグロリアにはもうどちらでも関係ないのかもしれない。
(どうしてここにいるのよ……ここにはもう何もないじゃない)
滅びた王都を彷徨うよりも、他の地に行ったほうがグロリアも楽しいのではないか。
いつも、緞帳の向こう側から舞台を見ていたような彼女だ。贔屓の役者もいないこの土地に何故いるのか。
「わたくしだってここにいたいわけじゃないわ。この地の魔素がわたくしを捕らえて離してくれないのよ」
悩まし気に身をよじる。
「これは陛下が生み出している魔素なのよ」
(アレクシスが……?)
「陛下はとってもすばらしい錬金術師になられたわ」
(錬金術師に……?)
「ええ。賢者の石だって完成させてしまわれるくらいに、優秀で、慈悲も心もない、すてきな錬金術師に」
賢者の石は錬金術師の最高到達点だ。ノアもいまだ近づく方法さえわからない。
(カイウスに倒されたのではないの……?)
グロリアは楽しそうにくすくすと笑う。
「自らの足で確かめに行きなさい。黒のエレノアール」
グロリアの姿が消える。
ああ、そうだ。グロリアはいつもこうだ。詳しく話してなどくれない。人の悩み足掻く姿を楽しそうに観賞する。高位精神体という在り方が、最も似合う錬金術師。
(グロリアの言うとおりね)
たとえ真実を話してもらえても、すべてを信じるなどできない。調べて、知って、行動を決断できるのは自分だけなのだから。