6-9 トルネリアとの時間
侯爵邸の中庭の一角には薬草園がある。かつて離れが建っていた場所もいまは薬草園の一部となり、奥には新しく、小さな建物もつくった。製薬所を兼ねる研究所を。
ホールから中庭に出たノアは、豊かに生い茂る緑に迎えられる。
良く手入れされた薬草園。人の手が細やかに入ったその場所は、自然の息吹に溢れながらも秩序が保たれている。
「ふん、無事に戻ったようだな」
声のした方を見ると、さわさわと揺れる薬草の合間から華奢な少女が立ち上がった。
白いシルクのような長い髪と赤い瞳が印象的な、この薬草園の守り人。
「トルネリア」
毒と薬を扱う一族の末裔であり、錬金術師。
金貨偽造と流通未遂の罪で二年間の労働を課せられ、ノアが身元を預かっている少女である。
ノアが帝都に行く都合上、その間は代理人に世話を任せていたが。
「まったく、侯爵は人使いが荒すぎる。どれだけ薬を売り込むつもりだ。もう一生分の薬を作ってる気がするぞ!」
不満を言いつつも、ノアが不在の間も真面目に働いてくれていたようだ。
トルネリアは薬草の世話の手を止め、ノアの方にやってくる。間引きと剪定作業をしていたようで、手にしているカゴには小さな草や花の蕾がたくさん入っていた。
清涼感のある香りが漂う。
「トルネリア、ここを守ってくれてありがとう」
「当然だ。我がいなければ大変なことになっていただろうからな」
満足そうに頷く。
その背後と周囲に広がる薬草園は本当に見事なもので、隅々まで手入れがされている。
「で? ようやっと帰ってきたと思ったら、皇太子を土産に連れてくるとはどういうことだ?」
「成り行きで……」
「次は戦争でもするつもりか? 何を作れと言う? 傷薬か消毒薬か、毒薬か」
「毒薬は作らない。戦争もしたくない」
たとえ本当に戦争が起こったとしても、毒薬だけは認められない。
トルネリアはつまらなさそうに頬を膨らませる。
「……トルネリア。錬金術って、戦争にはどれくらい役立つと思う」
「大いに役に立つであろうな。あらゆる面で」
戦場では有利な地形の作成や、罠の用意。
水や火の供給。
衛生状態の維持に、怪我人の治療。
そしてゴーレム。死を恐れない石の兵士。
「向こう側にも錬金術師はいる。錬金術師がぶつかり合ったらどれだけの被害が出るのか想像もつかない。戦争になんて、ならない方がいい」
ノアは戦争を知らないが、それらが残したものをたくさん知っている。
賢者の石、その失敗作、獣人、超越者。そして、滅びた王国。
「それはそうだが、それで済むのか?」
「すまないでしょうね、いまのままだと」
戦争をするかしないかの決定権はノアにはない。
「だから、私は私にできることをしようと思う」
いまは自分にできることをする。それが何なのかは、まだ見つかっていなかったが。
「それはそれとして。トルネリア、生きているみたいなホムンクルスって興味ある?」
「錬金術でつくりし疑似生命だったか?……何をさせる気だ」
警戒心を見せるトルネリアに、ノアは帝都から連れ帰ったナギの話をした。失った右手にホムンクルスの義手をつけていることを。
「ホムンクルスによる義手や義足の技術を広めていきたいの」
「ふむ、なるほどな」
興味深そうににやりと笑う。
「錬金術による修復では、欠損部位は治せない。本物そっくりの義手や義足なんて、大いに需要はあるだろう。――で? どうして我に話を持ち掛ける」
「私にもしものことがあったとき、患者が困るでしょう? リスク分散ってところ」
「己がいなくなった時のことを考える余裕が出てきたのなら、弟子でも取ればいいものを」
錬金術師になると言っていた少年たちの姿が頭をよぎる。
ノアは首を横に振った。
「弟子は取らない。最後まで責任が持てないもの」
「まったく。小難しいことばかり考えおって」
呆れたようにため息をつく。
「まあよい。ところでお主は明日は暇なのか」
「特に予定はないけど」
トルネリアは嬉しそうに笑みを浮かべる。
「ならば、明日は我に付き合え」
##
翌日。外出日和の天気の下、トルネリアと共に中央通りを歩く。
賑わいのある街並みは記憶の中の風景そのままで、戦争の気配など微塵も感じられない。
トルネリアに案内されたのは、ノアが始めた薬屋の近くにできたばかりのカフェだった。帝都に行く前にはなかった店だ。
ティーカップをかたどった看板をくぐり、木製の扉を開けると、響きの良いベルが鳴る。
紅茶の香りと甘い匂い。
小さくてかわいい店だった。席数は少ないが、ほとんどが埋まっている。人気があるようだ。
窓際の空いている席に着くと、トルネリアはメニューも見ずに注文をする。少しの時間を置いて出てきたのは、紅茶とパンケーキだった。
薄いパンケーキが四枚重なり、間にクリームが挟まれ、上からはベリーソースと木苺の砂糖煮がたっぷりとかけられている。
一口分切り分けて、クリームとソースをつけて口に入れる。
木苺の酸味と爽やかな香り、クリームの濃厚さ、ふわふわとしたケーキ。それらが絡まり合い、甘さが身体を突き抜けていく。
「うわ、おいしい」
感嘆の声を上げると、トルネリアは満足そうに笑った。
「だろう?」
「うん、すごくおいしい。連れてきてくれてありがとう」
「そうだろう? いくらでも感謝するといい」
夢中で半分食べ終わり、一度ナイフとフォークを置いて紅茶を飲む。
ゆったりと流れていく時間をいつくしみながら、ノアはトルネリアの顔を見つめる。大人びているがあどけなさが残る少女の顔を。
「もしかして、気を遣ってくれた?」
「そ、そういうわけではない。我はただ、これをお主といっしょに食べたかっただけだ」
頬が赤く染まる。白い肌だからこそ、よくわかる。
(かわいい)
嬉しさが込み上げてきて、頬が緩む。
トルネリアが笑う。蕾が綻ぶような笑顔で。
「ふふ、やはりお主はふわふわしているくらいがちょうどいい」
胸をあたためるのは、紅茶の温度か、ケーキの甘さか、トルネリアの微笑みか。
幸福な空間が愛しいと思ったその時、コツコツと、軽快な足音がテーブルに近づいてくる。
「やあ、お嬢様方」
上から降ってきたのは、聞き覚えのある声だった。
顔を上げると、茶色の髪と緑の瞳のすらりとした体躯の青年が立っていた。
ファントム――帝国の、公爵家に仕える錬金術師が。
「ご一緒させてもらってもいいかな」
「ダメです」
きっぱりと断ると傷ついた顔をする。
トルネリアは訝しげにファントムを一瞥した。
「何だこの不愉快な男は」
「初めまして、お嬢様。僕はファントム」
「奇妙な偽名だな。我はトルネリアだ」
「ああ、知っているよ。よく」
含みのある声に、不吉な予感がした。
ファントムはノアと出会ったばかりのころ、病気に侵されていた。肺に呪素が満ちる奇妙な病に。ファントムはそれを『トルネリアの呪い』と言っていた。
「トルネリアは一族に伝わる名だ。お主が耳にしたのは我が母か祖母の偉業かもな」
「なるほどね」
ファントムは人当たりの良い笑みを浮かべる。
「今日は我らは忙しい。出直せ」
「いやいや、そういうわけにもいかなくてね」
困ったように笑いながら、視線をまっすぐにノアに向ける。
「ノア、僕の主が君と話がしたいらしい。すぐ近くまで来ているから、少しだけ会ってもらえないかな」
「…………」
「外で待っているよ」
言って、すぐに店から出ていく。問い質す暇もない。
ベルの音を聞きながら、ノアはため息をついた。
――早すぎる。
ファントムの主など、公爵家の関係者に間違いない。
こちらは馬を変えながら昼夜走り続けてきたのに、もう追手が来ているなんて。そしてアリオス内に平然と入ってきているなんて。
無視はできない。話をする機会をくれるのなら、乗らない手はない。
「トルネリア、食べ終わったら先に帰ってくれる?」
「断る。お主ひとりで行かせるとか危なっかしくて仕方ない」
「トルネリア……」
心配してくれる気持ちは嬉しいが、巻き込みたくはないという気持ちもある。
「安心しろ、口は挟まん。あまりに不愉快な相手だったら、手が出るかもしれんがな」
トルネリアの赤い瞳には、静かな怒りが満ちていた。






